池田屋惣兵衛(いけだや そうべえ 文政4〜元治元年 7・13)

 本姓は入江氏。長州出身と伝わる。長州藩士が定宿としていた旅宿池田屋の主人。池田屋事変当夜、新選組の御用改めを二階の浪士たちに知らせたため、近藤勇に殴打され、昏倒。弟の彦七は当日捕縛されたが、惣兵衛は蘇生後、妻子を連れて脱出し、親類宅に潜伏していたが露見、六日に町奉行所へ出頭し、七日から六角獄に入牢。妻子も奉行所に呼び出され、九日からの六ヶ月間を町役人の監視下に置かれた。

 獄中で熱病を発して死亡した。享年四十二歳。五十六歳とする記録もある。墓は京都府京都市上京区下立売七本松角の浄円寺にあり、笹屋重助の名で葬られている。(菊地 明)

 

 

お梅(おうめ ?〜文久3年 9・18)

 京都四条堀川の太物問屋菱屋の妾。菱屋は芹沢鴨の注文を受けて着物を納入したが、代金を払わぬので、お梅を取り立てに行かせた。芹沢は通って来るお梅の美貌に目をつけ、強引に引き入れた。お梅は泣く泣く芹沢のいうがままになっていた。

 文久三年九月十八日、芹沢は屯所の前川屋敷で冷酒を飲み、泥酔して帰り、お梅と寝たが、真夜中、近藤らに襲われお梅も道連れにした。(今川 隆三)

 

 

 
沖田総司(おきた そうじ ?〜慶応4年 5・30)

 幼名は宗次郎、字は藤原房良。日野・八坂神社の献額には沖田惣次郎藤原春政、墓石には沖田宗治郎と刻んである。

 生年月日は不詳であるが、天保15年説と13年説がある。家系は奥州白河阿部氏に仕えた武家で、沖田勘右衛門 - 三四郎 - 勝治郎 - 総司となっている(沖田家菩提寺専称寺過去帳)。総司は勝次郎の長子で江戸麻布の阿部藩下屋敷で生まれたと伝えられる。沖田家の石高は阿部藩分限帳によると、22俵2人扶持である。

 総司は父母には早く死に別れたようで、11歳年上の姉ミツに育てられるが、九歳の時から近藤勇の道場試衛館に入門し、剣の修行に励んだ。ここで彼の天賦の才は見事に開かれ、十九歳で天然理心流免許皆伝となり、塾頭として門人の指導に当たった。近藤に代わって多摩方面にも広く出稽古に行き、沖田が本気で立ち合ったら師匠の近藤もかなうまいと衆評に上る剣士となった。

 文久三年春、二十歳の時、近藤らとともに京に上り、新選組隊士として池田屋事件その他で活躍する。職名は副長助勤、新選組剣術師範頭である。のちに幕臣として旗本の見廻組格という身分が与えられた。

 不幸にして肺結核に罹患し、幕府瓦解後、江戸に引き揚げて来たが、病状悪化し、浅草今戸の松本順宅(一説には千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎方)で年二十五歳で病没した。(天保十三年生まれとすれば二十七歳)。命日は慶応四年五月三十日(太陽暦七月十九日)

 病臥中「(沖田は)『もう病気は治った。もう一度剣を執って敵を殪すぞ』と死に臨み絶えず口にす」という記述が小島鹿之助の『両雄途事』にある(原・漢文)。

 墓は東京都港区元麻布三丁目1−37浄土宗専称寺にある。戒名は賢光院仁誉明道居士。辞世は「動かねば闇にへだつや花と水」とも伝わる。(森満喜子)

 

 

 

北添佶摩(きたぞえ きつま 天保6〜元治元年)

 名は正佶。初め源五郎と称し、のち佶摩。松陰、対松軒と号す。変名、本山七郎。土佐国高岡郡岩目地村に、庄屋・与五郎の五男として生まれる。幼少から学問を好み、間崎哲馬に学んだ。嘉永六年、父の死とともに庄屋職を継ぎ、同郡大内村に移った。佶摩世を憂い、安政以後の幕府の処置を憤り、尊攘論に応じ、志士の同盟に加わった。

 文久三年二月、同志能勢達太郎と脱藩し、江戸に遊学し、大橋順蔵の門に入った。一説によると、五月に京を発ち、敦賀から海路北海道に渡り、奥羽を視察し、北方の海防策を考えた。彼の抱いた大陸雄飛の志は、坂本竜馬の志士の北海道移住計画に影響を与えたという。

 元治元年、京都へ上り、本山七郎と変名し、尊攘の志士たちと交わって、倒幕の謀をめぐらした。六月五日、池田屋で会合中を、新選組に襲われ闘死した。三十歳。墓は岩倉の三縁寺と、東山霊山にある。(菊地明)

 

 

楠小十郎(くすのき こじゅうろう ?〜文久3年 9・26)

 太紋。新選組隊士。文久三年六月ごろ入隊。目が美しく、「美男五人衆」の一人に数えられた。桂小五郎の指示によって入隊されたとされるが、長州の間者として原田左之助に斬殺される。享年十七歳と伝わる。在京中だった真木和泉の日記に、文久三年七月一日付で「楠十」とある人物と同一か。墓は東京都北区滝野川七丁目の寿徳寺境外墓地。(菊地明)

 

 

 
近藤勇(こんどう いさみ 天保五年〜慶応4年 4・25)

 武蔵国多摩郡上石原村(現・調布市野水1−6)宮川久次郎・みね(えい)の三男。幼名は勝五郎。嘉永二年、天然理心流近藤周助の養子となり、江戸に出る。島崎勝太、のち、近藤勇、後年、大久保大和とも称した。
 文久元年、宗家四代目を継ぐ。同三年二月、徳川幕府の浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため上洛し、会津藩預かり新選組を結成、京都市中の取締の任に当たる。元治元年六月、池田屋事件が起こる。慶応四年一月、鳥羽・伏見の変で江戸に帰り、同三月、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れ、四月、下総流山で西軍に出頭する。同月二十五日、江戸板橋宿で刑死す。
 

 この時、偶然、甥宮川菊五郎が板橋に来ていて勇と目礼を交わす。近藤勇の墓は龍源寺(三鷹市大沢6−3−11)にある。龍源寺は勇の生家宮川家の菩提寺で、刑死後の勇の遺体を兄音次郎(音五郎)、勇五郎などが板橋から移した。刑死後の勇の首級は平成五年現在、その行方が確認されていない。

 時代の転換期に際会した近藤勇の評価には毀誉褒貶の常がみられるが、勇の時代への対応は公武合体による尊皇攘夷であったことが残された書簡、詩歌により知ることができる。新選組局長として人材の登用管理、組織力、統率力、決断力については大方の評家の見るところ、草莽布衣の臣が勇の処世哲学であった。


 勇の墓は龍源寺のほかに、天寧寺(福島県会津若松市東山町)、JR埼京線板橋駅東口(東京都北区滝野川7−8)などにあるが、板橋駅前のものは正確には供養塔であろう。寿徳寺が管理して毎年四月二十五日に墓前祭が催されている。 近藤勇誕生の地、調布市には「近藤勇と新選組の会」があり、また、調布市「いろはがるた」に、「義をとりて命を捨てた近藤勇」と収められている。(宮川豊治)