斎藤一(さいとう はじめ 天保15年〜大正4年 9・28) 

 父祐助(明石藩足軽、のち、株を買い、御家人となる)と母ますの次男に生まれる。江戸で生まれ育ったが、新選組には京都で入隊した。三番隊長となり、あらゆる修羅場をくぐる。慶応三年、伊東甲子太郎らの新選組分離に従い、御陵衛士に入隊したが、実は近藤勇のスパイとして潜入した。一の通報で伊東らの近藤勇暗殺計画を知った新選組は、伊東を油小路で暗殺。伊東の遺体を引き取りに来た御陵衛士らも襲われ、伊東派はちりぢりになる。また、天満屋事件でも活躍したが、鳥羽・伏見敗戦で新選組は江戸に帰る。

 慶応四年三月、甲陽鎮撫隊を組織した近藤に従って甲州に出陣、柏尾で敗れた鎮撫隊は江戸に敗走した。直後、一は五兵衛新田に行った形跡はない。負傷兵らを連れて会津に先発している。閏四月、会津戊辰戦白河の戦いに際し、宇都宮戦で負傷した土方に代わり、山口次郎として新選組隊長を務める。八月の母成の戦いの敗残、会津城下に西軍が侵入し、会津は籠城。以前から仙台候の密命で旧幕軍は仙台移行と決まる。一は、それに強く反対し、「今さら会津を見捨てるのは誠の義にあらず」と叫び、如来堂の一戦以来、少数の部下とともに姿を消す。会津落城後は藩士らとともに斗南に配流となり、一戸伝八を名乗る。

 明治になり、東京へ戻り、藩主松平容保の上仲人、佐川官兵衛、山川浩らの下仲人で、会津藩大目付故高木小十郎の娘・時尾と結婚、藤田五郎を名乗る。以後、旧会津藩士として生きた。明治五年設立時、警視界に就職、五月、西南の役に出征、勲章を受ける。警視局を退職後は女子高等師範学校書記などを務めた。

 時尾との間に三人の男子をもうけた。生来の酒豪のせいか、胃潰瘍になり、大正四年に死去。臨終時には床の間に座布団を重ね、その上に端座して息を引き取った。享年七十二歳。まさに彼の一生は幕末、明治、大正の歴史の証人でもあったといえる。(赤間倭子)

 

 

 

芹沢鴨(せりざわ かも 天保元〜文久3年 9・18)

 「鴨」は正しくは「おう」か。下村継次、木村継次。光幹。常陸水戸出身。芹沢貞幹の三男。新選組局長。神道無念流免許皆伝。水戸天狗党の出身で、同志の新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司とともに文久三年二月、幕府浪士組に参加する。八日、三番組小頭として出立するが、本庄宿での大篝火事件などを経て取締役附となり、二十三日に入洛。浪士組の黒幕清河八郎と袂を分かち、近藤勇らとともに京に残留する。三月十二日夜に会津藩お預かりが決定し、壬生浪士組を結成。近藤とともに局長となる。一説には近藤よりも上位の巨魁隊長と称していた。

 背の高い恰幅のいい人物で、酒に酔っていないことはなかったという。豪胆で粗暴な性格が伝えられ、隊の活動資金調達のため、四月二日に平野屋から100両、六月に加嶋屋で30両、七月四日に鴻池で230両と大坂の富商から借金を重ねた。さらに六月三日の大坂力士との乱闘、同月、島原角屋への営業停止処分、八月十二日には大和屋の焼き討ちと、その乱暴な所業はとどまるところを知らない。それでも四月八日に、屯所としている八木源之丞宅で子女の葬儀があった時などは、近藤とともに帳場に座り、立派に受付を務めたという。

 八月十八日の政変に出勤の際には、目前に突き出された槍の穂先を扇子であおぐという大胆不敵な態度が伝わる。しかし、その一ヵ月後の九月十八日夜、八木邸内で妾お梅と同衾中を襲われ、斬殺された。芹沢の狼藉に業を煮やした会津からの命令で、土方歳三、沖田総司らが手を下したという。同夜、八木邸にいた芹沢派の平山五郎も斬殺。平間重助は逃走。芹沢の死の数日前に新見錦は詰め腹を切らされており、野口健司は後日、切腹。ここに芹沢派は崩壊する。芹沢の享年は三十四歳、三十二歳、三十七歳とも。墓は京都市中京区梛ノ宮町の壬生寺。(今川美玖)

 

 

 
谷三十郎(たに さんじゅうろう ?〜慶応2年 4・1)

 藤原供国。備中高梁出身。谷三治郎の長男で万太郎と昌武の兄。直心流、神陰流剣術。新選組隊士。副長助勤、七番隊組長を歴任。備中松山藩士だったが、何らかの失策によって安政三年ごろに家は断絶となり、大坂に出る。弟万太郎が同行したか不明。入隊時期は文久三年と考えられるが、京坂を行き来していたためか名簿に記載が見られず、池田屋事変で土方歳三隊に属して屋内に斬り込み、報奨金17両を受けた記録が初出。元治元年七月の禁門の変後の残党狩りで、西本願寺の道場で剣術を教える中田九一郎らを捕縛して連行する。中田が神陰流道場の同門で面識があったため、お茶や煙草の世話をし、新選組は見かけほどに強い隊士はおらず、捕り物の際には、いつも自分が先頭に立たされてしまう、などと語ったエピソードがある。九月の葛山武八郎の切腹に際して、宿院良蔵とともに頼越人として光縁寺を訪れ、同年十二月の編成では八番大砲組を率いた。翌年のぜんざい屋事件では万太郎らと踏み込み、足に軽傷を負っている。

 慶応二年三月、田内知の切腹に際して介錯を務めたが、失敗し、評判を損ねたというが、田内の切腹は翌年のことであり、フィクションであることは明白。その死については祇園石段下での斬殺説もあるが、これもフィクションと思われる。死因は急病死と記録されている。光縁寺に仮埋葬されたが、万太郎らによって改葬された。墓は大阪府大阪市北区兎我野の本伝寺。(菊地明)

 

 

 

 
藤堂平助(とうどう へいすけ 天保15年〜慶応3年 11・18)

 字は藤原宣虎、別名南部与七郎。伊勢津藩藤原和泉守の落胤ともいわれている。江戸浪士。

 神田お玉ヶ池千葉周作の道場で北辰一刀流を学び、目録者となる。のち、近藤勇の道場試衛館の内弟子となる。文久三年二月八日、幕府の浪士募集に応じ、近藤、土方、沖田ら試衛館十三名の一人として京に上り、新選組を結成。彼は副長助勤として活躍した。

 翌元治元年六月五日、三条小橋、池田屋に集合した勤王浪士と新選組との激闘(池田屋事変)があり、平助は、あまり暑いので防具の鉢金を取ったところで押入れに隠れていた敵から額を斬られ、人事不省となり、戸板に乗せられ帰隊した。慶応二年秋、近藤の東帰に同行し、近藤より一足先に江戸入り、深川佐賀町で北辰一刀流道場を開いている旧知の伊東甲子太郎に会い、新選組への入隊を勧めた。この勧誘に従い、伊東は門弟ともども八名、新選組に入隊した。

 しかし、伊東は勤王家で、近藤らと意見が合わず、慶応三年三月十日、新選組から分離して高台寺月真院に移り、孝明天皇御陵衛士となった。平助も伊東と行動をともにした。つまり、近藤ら試衛館派を裏切ったことになる。

 脱隊は新選組の隊規違反である。同年十一月十八日、七条油小路において近藤は、まず伊東を殺害せしめ、知らせを受けて駆けつけた高台寺党との間に凄惨な死闘が繰り広げられた(京都市下京区油小路木津屋橋上ル油小路町281)

 平助は全身10余ヵ所の深手浅手を受け、溝の中に仰向けに倒れて絶命した。享年二十四歳。屍体ははじめ新選組の手で壬生の光縁寺に埋葬されたが、翌慶応余念三月十三日に同志の手で戒光寺(京都市東山区泉涌寺山内町)に改葬された。彼の歌が一首残っている。(森満喜子)

 益荒雄(ますらお)の 七世をかけて誓ひしことば たがはじ大君のため

 

 

 
永倉新八(ながくら しんぱち 天保10年〜大正4年 1・5)

 松前藩江戸定府取次役・永倉勘次の子として江戸下谷三味線堀の松前藩邸の長屋でうまれた、と本人は書き残しているが、謄本には天保十年九月十二日・東京府士族長倉勘治次男とある。新八の筆になる月形集治監の寄留戸籍には弘化二年四月とし、小樽での遺稿に父を蔵吉、母を柳生利恵子とし、出生については疑問を残している。

 幼名は栄吉、諱は載之。剣を神道無念流の岡田十松と、心形刀流の坪内主馬に学んだ。天然理心流の近藤勇らと親交を結び、文久三年、清河八郎らのの上洛浪士組に加わり、京都に残留し、新選組創設の母体となる新選組副長助勤・二番隊長となり、池田屋騒動では近藤、沖田、藤堂らと斬り込み、刀は折れ、指を削がれる奮戦ぶりであった。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸へ引き揚げた。おめ

 甲州鎮撫に出陣したが惨敗。江戸で近藤、土方らと袂を分かち、旧友の芳賀宜道を隊長とした靖共隊を創設、副長として野州、奥州を転戦、苦戦のすえ、援軍を会津に求めたがならず、各地を徘徊ののち江戸に帰った。

 その後、時世の波に流され、旧藩松前藩医・杉村松柏の婿養子となり、杉村義衛を名乗り、「継述隊」を組織し、仏式伝習調練をしたという。明治八年五月(謄本では六年九月)、家督を相続し、十五年、北海道樺戸集治監の剣術師範に招聘され、十九年に辞職し、函館に土方歳三ら旧友の霊を弔い、上京し、道場を開くかたわら、京・大阪に旧歴を訪ねている。

 晩年は小樽に帰り、悠々自適の生活を送り、新選組回顧録・同志連名記を残し、大正四年一月五日、小樽市で病没した。享年七十七歳。墓は新八が建てた東京板橋駅前の近藤・土方ら隊士の碑の左側に長男義太郎による「新選組永倉新八墓」と小樽市中央墓地には養父母、義弟玄英らとの合葬墓、さらに札幌市豊平区里塚霊園の杉村家の墓に「釈義潤・杉村義衛/(永倉新八改め)」と戒。俗名が併記された唯一の合葬墓。近くに盟友の前野五郎の墓もある。(山本博司)

 

新見錦(にいみ にしき 天保7年〜文久3年 9)

 「新見」は正しくは「しんみ」。常陸水戸出身。神道無念流免許皆伝。新選組局長、のち、副長。文久三年二月、芹沢鴨らと上洛、新選組結成に参加する。芹沢、近藤勇とともに局長となるが、のちに土方歳三、山南敬助と同格の副長へ格下げされた形跡がある。四月二日、大坂平野屋で借金した際の借用書には芹沢、近藤とともに署名しているが、それ以降はほとんど事蹟が残されていない。

 九月某日、芹沢らが暗殺される数日前に、祇園の貸座敷山緒で近藤らによって詰め腹を切らされた。享年二十八歳。墓所は不明だが、京都壬生寺にある殉難隊士の墓に刻まれた田中伊織と同一人物と推定される。(今川美玖)

 

 
原田左之助(はらだ さのすけ 天保11年〜慶応4年 5・17)

 佐之助。忠一。伊予松山出身。種田流槍術。原田長次の長男。新選組隊士。副長助勤、十番隊組長を歴任。安政三年ごろ、江戸に出て三田の松山藩邸で中間をしていたが、まもなく郷里に戻り、若党となる。この間に事情があって切腹を図ったが、その傷痕が、のちのちまで残っており、ついには丸に一文字を定紋にしたという。美男で頭もよかったというが、高慢な性格と伝わる。その後、出奔して江戸で近藤勇らと知り合い文久三年二月、浪士組の前身となる壬生浪士組を結成する。同年六月には大坂力士との乱闘事件に加わり、同年九月には長州の間者として楠小十郎を殺害。

 元治元年の池田屋事変では、土方歳三隊に属して屋内に斬り込み、報奨金17両を受け取る。翌月の禁門の変では小荷駄雑具方の長を務め、翌慶応元年には十番隊組長となるが、翌年九月の三条制札事件では七番隊組長として出勤している。この時、土佐の藤崎吉五郎を斬り伏せるが、軽傷を負った。油小路の変では服部武雄と剣を交え、ついには刺殺したという。

 慶応元年三月ごろ、仏光寺の町人菅原某の娘マサを妻として、醒ヶ井通七条下ル釜屋町に家を構える。同二年、長男茂が誕生。三年十二月には次男が生まれたが、早世した。伏見転陣を前に二分金ばかりで200両を妻に届けたと伝わる。

 鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、甲州勝沼の戦いに敗走後、江戸で永倉新八らとともに新選組を脱して靖共隊を結成、副長となる。旧幕脱走軍に合流して日光への進軍中、山崎宿で離脱し、江戸へ戻った。その後、本所猿江町の神保山城守の一隊に合流した模様で、五月十五日の上野戦争に負傷して神保邸で死亡する。享年二十九歳。馬賊としての生存説もある。墓は東京都北区滝野川七丁目の寿徳寺境外墓地。(菊地明)