土方歳三(ひじかた としぞう 天保6年〜明治2年 5・11)

 土方歳三は裕福な農家の四男。武州多摩の石田村に生まれた。歳三が誕生したときは、すでに父は亡く、六歳の時には母とも死別。年齢の離れた兄に養われて育つ。

 十一歳の時、江戸の上野松坂屋へ丁稚奉公にやられる。松坂屋は躾の厳しい店で、奉公は半年と続かなかったが、彼はここで初めて人間管理のノウハウにふれたのではないかという気がしている。

 青春期は放浪の時代で、歳三の美貌が災いして、女の問題がついて回ったようだ。

 土方家に伝わる傷・打ち身の薬「石田散薬」を担って、薬の行商をするかたわら、多摩地方で盛んだった剣術にも身を入れ出す。それは盟友近藤との出会いでもあり、やがて文久三年、京に上って「新選組」を結成、波乱の生涯を送ることになるきっかけでもあった。京における歳三は近藤を助けて、あくまでナンバー2として振る舞う。浪士集団を束ねていくために、冷徹なまでに鉄の隊規を遂行していく役柄を自らに振り当てていた。

 歳三が副長時代とは、別な顔を見せ始めるのは、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗退し、江戸で近藤が新政府軍に降った後のことである。江戸で敗れ、会津をめざした幕府諸隊は、やがて仙台で榎本武揚と合流する。土方歳三は榎本軍の最も有能な司令官として蝦夷地での戦闘を展開することになる。

 すでに明治となった年の10月、五稜郭に入城。榎本とともに蝦夷地に新しい国家を作るために、着々と準備を進める。北国の厳しい冬の間、二股峠に砦を築き、そこを守り抜き、歳三は全力を出しきって闘った。最後に小姓だった若者に託して、自分の写真を姉のおのぶのもとへ送り届けさせたのは、常に故郷が彼の心を去らなかったことを物語っている。

 明治二年(1869)五月十一日、函館市内異国橋付近で歳三馬上で戦死、と伝えられている。だが、その最期は、いまだに明確ではない。(大内美予子)

 

 

 

古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう 文政12年〜元治元年)

 名は正順(まさやす)。初め、頼母、俊太郎と称す。変名、枡屋・湯浅喜右衛門。近江国大津に生まれる。父は周蔵正明、近江国粟田郡物部村古高の旧族。父が大津代官石原清右衛門に仕え、のちに山科毘沙門堂の家臣となり、正順は同門跡の近習になった。

 国学・和歌を烏丸光徳に学び、梅田雲浜の門に入り、勤王を志した。堺町丸太町に住み、彼の家は勤王派の集会所となるが、幕吏の目をくらますために、骨董屋を装った。文久元年三月、薪炭商・枡喜の養子に入り、ここを本拠に勤王活動を続けた。

 元治元年、古高を中心に志士たちは連判状に署名し、尊攘派暴発の決議をした。しかし、発動を目前に、枡屋は新選組の手入れを受け、古高は壬生に連行された。池田屋事変の後、禁門の変が起こり、戦火は洛中を焼き、六角牢に迫った。七月十九日、古高は獄中に処刑された。三十六歳。墓は東山霊山と福勝寺(千本出水西入ル)にある。(石田孝喜)

 

 

宮部鼎蔵(みやべ ていぞう 文政3年 4〜元治元年 6)

 姓は中原、名は増美、鼎蔵と称す、号は田城、医者春吾の子。肥後国益城郡田城村出身。弟春蔵は禁門の変に敗れて、天王山で屠腹。鼎蔵は山鹿流軍学師範の叔父丈左衛門の養子となり、嘉永二年、跡を継ぐ。

 同三年、熊本に来た吉田松陰と親交を結び、翌年二月に江戸へ上り、松陰に会い、暮れには、ともに東北地方を遊歴した。安政二年、弟らの喧嘩事件に巻き込まれ、免職となる。帰省中、文久元年十二月、清河八郎に会い、同二年、上洛して勤王の志士と交わる。翌三年、藩主の弟護衛に従い、再び上京、親兵の総監になる。八月十八日の政変により七卿とともに長州に下った。

 元治元年夏、鼎蔵は松田重助、高木元右衛門とともに上京し、枡喜宅に潜んで、政局打開策を練っていた。下僕忠蔵が捕まえられ身の危険を感じ、小川亭に潜んだ。古高が逮捕され、陰謀が露見し、池田屋に会した鼎蔵は奮闘のすえ、切腹して果てた。墓は岩倉の三縁寺にある。(石田孝喜)

 

 

深雪太夫(みゆきだゆう 生没年不詳)

 近藤勇の愛妾。本名は未詳。生まれは一説に金沢という。大坂新町遊郭折屋の抱え女郎。元治元年ごろ、新選組御用達を務めた大坂八軒家京屋忠兵衛の斡旋により勇が請け出し、京都・醒ヶ井木津屋橋下ルところの休息所に囲った。新選組諸士調役を務め、勇の身辺の事情に明るかった島田魁の遺談によれば、当時年齢二十二、三歳、背のすらりと高い美人だったとある。勇も彼女には深い愛情を注いだようであるが、深雪は、それからわずか一年くらいで、病により世を去っている。

 尚、大正十年に没した報知新聞記者鹿島淑男は自著「近藤勇」の中で、彼女の存命説をとり、明治四十四年、偶然同じ汽車に乗り合わせた京訛りの老婆が、実は深雪本人だったといい、彼女が語ったという話を載せているが、その内容は調査に基づいてはいるものの、聞き書き形式を用いた創作であると考えられる。(清水隆)

 

 

 
山崎烝(やまざき すすむ ?〜慶応4年 1)

 丞、蒸、烝、進、晋。摂津大坂出身。阿波徳島とも。新選組隊士。医家に生まれたという。香取流棒術の使い手とされるが、中里介山の「大菩薩峠」中で「山崎譲」の流派として創作された可能性がある。新選組入隊は、文久三年末か同四年初めと推定される。諸士取調役並監察、副長助勤を歴任。池田屋事変では、薬屋に変装して数日前から潜入し、当日は内部から手引きしたとされるが、その事実はなく、報奨金リストにも名前が見られないことから、不参加が確認される。元治元年十二月の編成では原田左之助の小荷駄雑具方に属し、山南敬助の切腹の際には神崎一二三とともに頼越人として光縁寺を訪れている。慶応元年閏五月、松本良順を訪れた際に救急治療法を習い、「我は新選組の医者なり」と、笑って語ったという。同年十一月、近藤勇の広島行に吉村貫一郎らと同行し、近藤の帰京後も長州探索のために残留して、翌年六月には報告書を左藤安二郎に託している。

 その後、慶応三年四月まで消息はつかめないが、同年中に谷山誠一郎ら数人の隊士と江州八日市への出張の記録がある。六月の幕臣取立てでは見廻組並の格を受けた。また、この前後には中山忠能、正親町三条実愛、柳原前光らの公卿を訪れるなどして、新選組の立脚する公武合体論を説き、九月十四日には鷲尾隆聚邸に不穏人物の捜査に赴いている。

 鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、大坂の京屋忠兵衛方まで後送されて死亡したとされるが、横倉甚五郎は淀、島田魁は橋本での討死と記録。「戊辰東軍戦死者霊名簿」には江戸帰還の船内で死亡とあり、実家である林家の過去帳にも船中死亡が記されている。享年三十五、六歳と伝わる。墓は東京都北区滝野川七丁目の寿徳寺境外墓地。(菊地明)

◆2004年に「山崎烝 取調日記」が見つかった。中身は隊士名簿や慶応年間の出来事を書いたメモ帳らしいが、詳しくは現在解読中である。同年末、日野市ふるさと博物館にて初めて公開された。

 

 名前を変え、愛しい妻・琴音とも別居し、新選組に入隊した山崎烝。棒術の使い手でもあった男が与えられた役目は密偵であった。冷静に彼らの情報を探る立場を通し、歴史の大勢への、如何ともしがたい山崎の煩悶と、新選組の実質的統率者・土方歳三に向けた厳しい批判の目。だが、そんな山崎も、いつしか密偵という仮面が、自分の一部となっていく…。謎多き男の生涯を描く歴史小説。 島津隆子作、新人物往来社・廣済堂文庫

 

 

 

 

 
山南敬助(やまなみ けいすけ 天保4年〜元治2年 2・23)

 「山南」は正しくは「さんなみ」。山南敬介、啓輔、三南敬助、啓助、三郎、三治郎、三男啓介、勇助。藤原知信。陸奥仙台の剣術師範山南某の次男。新選組副長、のち、総長。北辰一刀流免許皆伝であったが、近藤勇と立ち合って敗れたため、以後、近藤に弟子入りしたという。

 文久元年八月の近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に参加。翌二年正月には沖田総司とともに多摩地方へ剣術教授に出張している。翌三年二月、近藤らとともに浪士組に加わり上洛し、新選組を結成。局長助とも呼ばれる副長職に就く。六月三日、大坂力士との乱闘事件に参加。七月ごろ、料亭岩木升屋に押し入った不逞浪士を斬り、会津侯から報奨金を受ける。八月十八日の政変の際には、先鋒として出陣。さらに九月十八日には芹沢鴨暗殺に加わっている。

 しかし、翌元治元年になると病を患い、二月に知人が屯所を訪れても面会できないほどであったという。そのためか、六月の池田屋事変や十二月の行軍録にも参加せず、次第に新選組の表舞台から姿を消していく。

 そして元治二年二月二十三日、突如として隊を脱走した。しかし、途中の大津宿で追っ手の沖田総司に発見され、屯所へ連れ戻される。即日、隊規違反による切腹が申し渡され、かねてなじみの島原遊女の明里と前川邸の出窓越しに今生の別れを告げ、沖田の介錯で切腹して果てたという。色白で愛嬌のある顔をした、温厚な人物であったと伝わる。享年三十三歳。三十歳とも。墓は京都市下京区四条大宮光縁寺。(今川美玖)