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市川雷ちゃんの特別上映によせて

 京都に夏が訪れ、街角から「コンコン、チキチン」の祗園囃子が聞こえてくると、すぐに雷ちゃんのことを思い出します。

 京都に生まれ、京都の映画界で育った市川雷蔵、雷ちゃん。もう30回忌になりますが、昭和44年の7月17日の祇園祭山鉾巡行の日に東京で亡くなりました。37才の若さでした。映画俳優として、最も脂の乗り切った時期の早逝でした。そのせいか、祇園祭が近づくと雷ちゃんのことが偲ばれます。

 雷ちゃんが自分のことを書いたものの中に「スターであるために夫婦揃って街をゆっくり歩いたことがない。買物に行っても、映画館へ行っても、じろじろと奇異な目で見られているようで落ち着けない。ただ祇園祭の宵山(宵宮)の時だけはたいへんな混雑で、この晩だけは誰にも気づかれずに、妻と手をつないで歩けて、妻がとても喜んだ」といったことが書かれてあったのを思い出します。

 京都生まれの私も、祇園祭の宵には円山応挙の屏風絵や洛中洛外図などの障壁画が飾られ、接待に趣向を凝らした京都らしい商家の並ぶ室町辺りを歩くのが好きで、宵山の時はよく出掛けたものですが、ある時に何十万もの人々で賑わう四条通りで、バッタリと雷ちゃんそっくりの人に出くわして、ハッと立ち止まったことがありました。そのつつましそうに歩くカップルを見て、雷ちゃん夫婦のことが重なって、若いまま逝った雷ちゃんを偲びながらも、見送ったことがありました。

 普段の雷ちゃんは俳優らしくない、ごく平凡な感じで、すれ違ってもどれだけの人が雷ちゃんと気づいたことでしょうか。

 森一生監督も言っておられましたが、『ある殺し屋』で、針一本で殺しを済ませ、受け取った札束を無造作にレーンコートに押し込んで、白昼を颯爽と歩く殺し屋を撮影したいということで、大阪の御堂筋でロケーションをしました。カメラは向かい側のビルの小窓から望遠レンズで盗み撮りですが、当時人気スターの雷ちゃんをどう現場に連れて来るかが問題だったのです。ですが、意外にも雷ちゃんは誰にも気付かれずに、撮影は成功。むしろ、カメラに気付く人がいて困る程でした。

 素顔の雷ちゃんは、あまりスターらしくない、スターらしく見せようとしない、平素は至極平凡な印象で、どこにでもいそうなサラリーマン風の感じの人です。それがメイクをし衣裳を付けて、カメラの前に立つと、全く別人のように映える。俳優としての彼は、すごく自分に厳しく、色々な役どころに一人一人違った肉付けをすることに苦心していました。レンズを通しての市川雷蔵は、顔や姿や動きだけのものでない、凄じい役者根性のようなものを感じ取りました。

 私が言葉で説明するよりも、スクリーンで分かって戴けると思いますが、ある映画では颯爽として、またある映画では喜劇的な役柄もこなせる芸域の広い役者でした。

 雷ちゃんの出世作となった溝口健二監督の『新・平家物語』では、若き日の平清盛を演じ切り、確固とした地位を固めましたが、溝口さんは雷ちゃんを初めて見た時には、少し線が細いんではないかと心配したようです。普段歩く時はふあふあとした印象をうけ、少し足腰の弱さを感じたものです。私も足元をできるだけ映さないようにはしましたが、ご周知の通り、厳しい監督と言われた溝口さんが感心するほどに、雷ちゃんは若々しい覇気のある清盛像を作り上げ、スターの座を確固としたものにしました。

 市川崑監督の『炎上』では、一転して屈折した美意識を持った修行僧を演じ、新境地を開きます。また同じ市川崑さんの『ぼんち』では、ぼんちの若い日から晩年までを演じ、演技の幅の広さを見せました。『ぼんち』の中にあるセリフで「喜久ぼんは、ぬけているのか、ふてぶてしいのか分からへん」というのがありますが、雷ちゃんが演じた役柄だけでなく、雷ちゃんの役者としての多様性を表しているようで、愉快な印象を持ちました。私の好きな『破戒』では清潔な青年教師を演じます。他にも、伊藤大輔監督の『弁天小僧』や『切られ与三郎』、森一生監督の『ある殺し屋』などが印象に残っていますが、一作一作に新しい役柄の肉付けを見せます。私は担当しませんでしたが、のちにシリーズものになった『眠狂四郎』や『陸軍中野学校』などを見ても、仕事をする度に、新しい芝居を心がけ、新しい演技に磨きをかけていたことが分かってもらえると思います。

 俳優さんは、一つのキャラクターができると、なかなかイメージ・チェンジができないものですが、雷ちゃんは全く反対に、いつも新しい役作りに挑戦し、凄じいまでの闘志を持った、本当の映画俳優と呼べる人のひとりだったと思います。

 今の日本映画界は、たいへんな時期です。雷ちゃんの良きライバルだった勝(新太郎)ちゃんも亡くなり、黒澤(明)さんも逝ってしまって、淋しいかぎりです。今回の雷蔵特集では、単に懐古的にみるのではなく、新しい日本映画の糧になるように観て戴きたいと思います。映画を日本の文化として、若い人によって、日本映画を盛り上げて行って欲しいと思います。それが雷ちゃんの残してくれた次世代へのプレゼントだと思います。(談)

 

(宮川一夫 映画祭公式パンフレットより 文責 太田米男)

注:京都の生んだ名キャメラマン宮川一夫さんは、この年(1999年)の8月7日に91歳で亡くなった。