六才のとしの六月六日の六時、故山村わかさんのところへ初踊りのけいこに行く朝。

 

 山村流は、上方四流(山村・井上・楳茂都・吉村)の中で最も古い流儀であり、三世中村歌右衛門に歌舞伎の振付師としての才能を認められ、山村友五郎を流祖として、江戸時代(文化3年)大阪で創流された。

 平成18年5月に国立文楽劇場にて行われた宗家の会「舞扇会」にて200周年を迎えた。

 山村流の舞は、能から出た行儀の良い舞として商家の子女の行儀見習いであり、教養であり、何より楽しみとして、山村流の名取札が嫁入り道具にかかせぬものと言われるまでになった。
  谷崎潤一郎の「細雪」でも主人公・妙子が地唄の「雪」を舞う姿が描かれている。

 日本の芸術音楽は、劇場音楽として発達したものが多いが、上方において生まれた地唄や筝曲は、家庭音楽・室内音楽として、発展したものである。これらは、江戸時代より検校・勾当と呼ばれた盲目の演奏家によって、伝えられるようになった。
 内面に於いてのみ、精神の解放を得ることが可能であった彼らは、研ぎ澄まされた聴覚でもって繊細な音楽を作り上げた。

 上流の家庭の婦女子は、つつましく、控えめであるべきだとする生活感情に、この音楽は、広く受け入れられるようになり、上方に住むものにとっては、土地の歌、すなわち地唄と呼ばれた。江戸においても上方唄と称され流行したが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸においては、次第に失われていった。

 地唄には、家庭音楽として伝えられてきたものと、酒宴席において広く演奏された娯楽性の強いものと大きく二つに分けられる。地唄の短い曲(端唄)に振りをつけられたものが、地唄舞であり、商いの街・大阪に集う人々をもてなすため、当時の交流の場であった座敷で広く舞われ、座敷舞とも呼ばれるようになった。

 地唄舞には、能から作られた『本行物』・動物などを面白おかしく詠いこんだ『作もの』(滑稽物・おどけ物)・男女の恋愛を詠んだ『艶物』や、季節や風情・風俗を歌った物など様々なものが伝えられている。

 かって、婦女子は、能楽を習うことが許されておらず、そのため“謡物”といわれる地唄が生まれまれた。当時、米の売買に各藩より多くの武士が、大阪を訪れており、武士の嗜みであった
より作られた、地唄の“謡物”に振りを付け、座敷にて彼らをもてなしたのが、『本行物』の始まりであり、地唄舞の中で重い格付けで扱われている。

 『作物』は、検校や勾当の生活が豊かになったことで、彼らの余興として発達したものである。彼らは技術を競って滑稽な調子の作品を生み出したが、公式の場で演奏される類の物ではない為、多くは、作者不詳とされている。『艶物』は、主に廓の女性の切ない恋を詠んだものである。

 地唄舞を含め、上方の地では生まれた舞は、上方舞と呼ばれている。舞台芸術として発達した関東の踊りとは、性格を異にしており、座敷にて舞われたことで、埃をたてぬ様に、半畳の空間でも舞えるようにと工夫されて生まれた物である。上方舞は井上・楳茂都・山村・吉村の四流が主流派とされ、その伝統の維持・継承の必要性が唱えられている。