撮影を抜けて焼香に見えた小暮実千代さん

市川雷蔵さんも悲しみのうちに・・・ 依田義賢、高木貢一氏らにまもられて遺体をはこぶ

東京青山斎場は、全映画人の敬虔な祈りのうちに

 日本映画界の至宝、溝口健二監督は京都病院に療養中のところ、八月二十四日に単球性白血病のため死去。五十八才。

 氏は明治三十一(1898)年東京に生れ、大正九(1920)年日活向島入所、同十二(1923)年『愛は甦る』を監督してデビュー、その後、日活、新興、松竹を経て、昭和26(1951)年より大映専属、この間、昭和十五(1940)年『残菊物語』、十六(1941)年『浪花女』、十七(1942)年『元禄忠臣蔵』で三年連続して文部大臣賞を受賞。

 戦後は二十七(1952)年『西鶴一代女』がヴェニス映画祭で賞を受けたのをはじめ、二十八、二十九(1953・54)年とつづけて『雨月物語』、『山椒大夫』が同映画祭で最優秀外国映画賞、銀獅子賞をそれぞれ獲得、国際的にも大監督の地位を獲得した。また、文部省社会教育委員や日本映画監督協会々長であった。

 葬儀は京都の自宅で密葬を二十六日に行った後、三十日東京青山斎場で大映社葬が行われた。

 故人をしのんで盛儀。告別式の三十日は前日からの雨がしとしとと降り、式はしめやかに行われた。祭壇には、溝口監督の遺影が飾られ、多数の花束にかこまれていた。

 式場には喪主長女宝さん、夫人ふじえさん、次女嶺さんをはじめ、大映永田社長、川口専務、小津安二郎、吉村公三郎両監督、田中絹代ら関係者が並び、午前十一時読経が始まり、遺族の焼香についで、友人代表として小津安二郎、門弟代表として成澤昌茂の弔辞があった後、一般の焼香が行なわれたが、さすが大監督の葬儀にふさわしく、会葬者はひきもきらず、松竹大谷社長をはじめ、在京映画人、作家、政界人がつづいていた。

 

(映画ファン56年11月号)