最後に寿海丈の著書 「寿の字海老」よりお奥様の事をお書きになった部分を抜粋して記載いたしたいと存じます。

 私は生れてから今日まで三十回近く引越しをしていますので、よく引越しマニアなどといわれ、友人に会うたびに「また引越しか」などとからかわれたものです。

 特に引越しが好きというわけではありません。若いころは借家住まいでしたから、どうせ、自分の家ではないと思うとすぐ飽きが来てしまい、少しずつでも給金がふえてくると、もう少しいい家へ移りたいという気にもなりがちなのです。それにだんだん大きな家へ引越して「ここへあれを置いて、あそこへこの額をかけよう」などと考えるのが楽しみなものですから、次から次へと引越しするわけです。(中略)

 本郷三組町の妻恋坂の近くのちょっとした二階家を借り、ここで現在の家内らくを迎へました。そして、まもなく神田三崎町に移りました。(中略、この間早稲田南町、下谷根岸と引越しております)

 これまでは全部借家だったので、震災騒ぎもどうやら静まり、ここらで自分の家を持ちたいと思って、家内と土地を探したところ、ちょうど伊勢丹の小菅さんの所有で、赤坂新町に家が見つかり、これを買って入ったのですが、自分の家はこれがはじめてでした。大正十四年、三十七才の時です。

 しかし、家が古いのです。隣接の土地を買って百五十坪ばかりになりましたので、新築を思い立ち、三年後に新築しました。小菅さんははじめ「私は役者は嫌いだ」と云ってなかなか売ってくれませんでしたが、お話しているうち「君は役者らしくない」と好意を持って下さるようになり、庭にあった大きなモチの木もろとも売って下さいました。

 新築を始めると、あまり金もないのについ欲が出て、二階建てで十間もある大きな家になってしまい。やれ茶室だ、やれ支那館を作ろうと、当時の金にして三万円もかかり、庭の手入れは家以上かかってしまいました。

 さしもの引越し好きの私もやっと自分の家を持つことが出来ましたので、この家には昭和十三年、東宝を退座するまる十四年間住み付きました。一番思い出深い家です。

 (中略)三十三年やっと現在の京都伏見へ落ち付いた次第です。もの好きに勘定しますと、茅場町へ一戸を構えてから二十二回引っ越した計算になります。それ以前のを計算すると優に三十回は越えましょう。

-「寿の字海老・引越し遍歴より」-(抜粋いたしましたのは、お奥様も引越がお好きとお伺いしましたので載せました。)

(よ志哉21号より)