有吉 佐和子
(ありよし さわこ)
1931年1月20日〜
                1984年8月30日
和歌山県和歌山市
 

 

有吉文学は永遠に不滅です!
 長州藩士有吉熊次郎は曽祖父にあたる。横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィア及びスラバヤで過ごす。41年に帰国後、東京市立第四高女(現・都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現・和歌山県立桐蔭高校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(現・都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが、休学後、52年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。

 大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。56年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが、59年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。

 62年、神彰(興行師。離婚→他人と再婚後に居酒屋チェーン「北の家族」を経営)と結婚。長女として有吉玉青をもうけるが、神の事業の失敗により64年に離婚した。

 70年代に入ると、代表作となる『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会的活動も行った。また、しばしば国内外へ取材旅行に出かけ、59年-60年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に9ヶ月間留学、70年 - 71年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。

 特に中国との縁が深く、61年には亀井勝一郎・井上靖・平野謙・吉川英治らと国交回復前の中華人民共和国を訪問し、以後たびたび招待された。65年には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し、78年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。このほか、68年には友人の文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れている。

 84年8月30日未明、急性心不全のため都内の自宅で死去。53歳だった。

1967.10.28 華岡青洲の妻

 

 

 

 

 小説『華岡青洲の妻』は、1966年に新潮社から出版されベストセラーとなる。この小説により医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知される事となる。小説では華岡青洲の功績を、実母と妻との「嫁姑対立」と云う現代にも通じる問題に絡めながら、実母や姉・妻の献身的な協力無くしては成されなかった物として描かれている。

 しかしながら実際には親族が自ら次々と実験体に名乗り出ており、実母や妻に限った話ではない。あくまで本作は小説であり、映画版を含めて、実母と妻の役割と美談を強調した創作である。

 ただし、青洲の妻・加恵は、中世以来の紀伊の名家である妹背家(その屋敷は紀伊藩主が参勤交代の際の第一番の宿所に指定されている)の出であり、青洲としてはむしろ妻の実家に遠慮しないといけない立場であった。当時の社会制度上は妻が夫に反しては生きていけなかったため、加恵は協力を断れない状況に追い込まれたというのは、有り得ない話である。