若尾文子

雷蔵撮影による

1933年11月8日/東京都

若き日の若尾文子は、まさに“愛くるしい”の一語につきた。やや下ぶくれのふっくらとした顔に、くりくりとよく動く目。永田社長が、彼女に、“お前は高嶺の花でなくてヒクネの花だ”といったという。その言葉どおりの、庶民的な可愛らしさが身上であった。

52年、大映入社。「死の待ちを脱れて」でデビュー。翌53年、「十代の性典」が、「続・続」篇まで作られる大ヒットとなり、めきめき売り出していった。さらにこの時期、彼女にとって幸運であったのは、巨匠溝口健二の「祇園囃子」(53年)に出演したことであった。「祇園囃子」における舞妓さんの愛らしさは抜群で、若き男性達の甘く切ない想いを一身に集めるアイドル・スターになったのである。

彼女がデビューした昭和二十年代から三十年代にかけて、日本映画界は史上類を見ないほどの隆盛を迎え、その中で彼女は、新進スターとして数多くの作品に出演。明るく美しい娘役として人気を得たのだが、反面彼女はその愛らしさの中に、暗く鬱屈した陰の部分を感じさせる不思議な魅力を持っている。明るさの底にほの見える、暗い情念がゆらめき立つとき、演じる役に深みと陰影を与え、独特な光彩を放つのである。

それは、小学校生活を戦争のただ中に送り、慣れぬ疎開生活で、母と兄を引き続いて失ったという過去の経歴が、彼女に残した傷跡であったかもしれない。彼女は自ら自分の青春時代を暗く不幸なものであったと語っているがその思い出が、彼女に女としての屈辱感や、チロチロと燃える鬼火のような情念を刻んだのかもしれない。彼女の代表作となった「妻は告白する」(61年)と「雁の寺」(62年)は、ともにこうした彼女の持つどこか罪の匂いのする暗い情念を、見事に引き出したものである。

「妻は告白する」で彼女の演じたのは、大学助教授夫人。貧しい身を拾われ妻となった女である。そして、北穂高の岩陰で、彼女は宙ずりになった夫のザイルを切断する。それは、同時にザイルに取りついていた彼女の愛人を救うためであった。

「雁の寺」の里子。衣笠山麓にある孤峰庵の住職に囲われている女である。水上勉の代表作でもあるこの作品は、乞食女の捨て子として生を受けた少年僧慈念の、殺人にいたる孤独な怨念を描く。慈念が愛憎分け難い想いを寄せる里子は、男の手から男の手へと渡され、いまは庫裏の奥の一間で、住職との爛れた愛欲の日々を送っている。

この二つの作品のヒロイン。他人とわかつことのできない孤独感と、沈殿した怨念を持つ女性像は、若尾の全身から漂う暗くセクシャルな雰囲気があってこそ、スクリーンに表出しえたのである。

「雁の寺」出演の翌63年、彼女はヨーロッパ旅行で知り合った商業デザイナーと結婚したが、六年後に離婚。結婚生活の破綻、大映の倒産とつづき、彼女の映画出演は急速に減っていくが、68年の「積木の箱」「不信のとき」は、演技派女優の名に恥じぬ見事なできばえであった。

映画出演が減ったというものの、その分、舞台、テレビでの活躍は目覚しく、芸術座・日生劇場などに出演。愁いを帯びた容姿と、日本人好みのなよやかな色気で、舞台女優としても第一線級であることを証明した。私生活でも長く愛情関係にあった世界的建築家の黒川紀章氏と50歳にして入籍し、幸せな家庭生活を続けている。

1955.04.24 薔薇いくたびか
1957.01.15 スタジオはてんやわんや
1957.03.20 朱雀門
1958.04.01 忠臣蔵
1959.05.01 山田長政・王者の剣
1959.06.03 次郎長富士
1959.12.27 初春狸御殿
1960.04.13 ぼんち
1960.08.09 安珍と清姫
1961.01.03 花くらべ 狸道中
1961.03.21 好色一代男
1961.10.14 新源氏物語
1962.05.12 仲良し音頭・日本一だよ
1962.11.01 秦・始皇帝
1963.01.13 丞変化
1963.12.28 新忍びの者
1967.10.28 華岡清洲の妻