伊藤 大輔
(いとう だいすけ)
1898年10月12日〜
  1981年7月19日
愛媛県宇和島市

 

 

『ジャン有馬の襲撃』

 

『切られ与三郎』

監督立会いで、歌のレッスン
 

『切られ与三郎』

 

 中学教師だった父・朔太郎、母・寿栄の長男。祖父は彰義隊で亡くなり幕末には特別の思い入れがあると後年語っている。松山中学の同窓に伊丹万作、中村草田男がおり、投稿雑誌で大宅壮一などと文才を競った。伊藤が文章を書き伊丹が挿絵を書いた同人雑誌を出す。父が死亡し進学の道を絶たれ、中学卒業後、呉海軍工廠に製図工として入り、そこで作家・宮地嘉六主宰の演劇グループに所属。労働組合の関係者と疑われ退職処分を受ける。20年、劇作家・小山内薫を頼って上京し、彼の斡旋で創設されたばかりの松竹俳優学校に籍を置き、上京していた伊丹万作と同居生活を送る。松竹蒲田のヘンリー小谷監督による製作第1作「新生」のシナリオを小山内薫の推薦で書き、2年間に50本以上を書きまくった。23年、帝キネ東京に移り、帰山教正監督「父よ何処へ」(23年)、「寂しき人々」(24年)のシナリオを書くが、関東大震災に遭い関西へ移り、24年に国木田独歩原作「酒中日記」で監督になる。翻案もの「剣は裁く」(24年)が時代劇の第1作で、ツルゲーネフの「煙」(25年)を翻案・監督後、独立プロ・伊藤大輔映画研究所を設立し、「京子と倭文子」「日輪」(26年)を監督するが負債を負い解散。日活京都撮影所に入り、新人でともに28歳だった大河内傳次郎と「長唄」(26年)で初コンビを組む。幕末勤王の志士・壱岐一馬と次馬兄弟を題材に、恋に破れた一馬が新選組に包囲され斬死するクライマックスの迫力は、“イドウダイスキ”の異名をとる移動撮影を大胆に駆使したものである。

 「忠次旅日記」3部作(27年)は全26巻の大作で、1992年に発見された復元版8巻がフィルムセンターに保存されているが、「御用篇」からカメラマン唐沢弘光と18本組む。彼は手持ちカメラで乱闘シーンの中走って撮り、体にもカメラを縛り付けて被写体を捕えるなどダイナミックで壮絶な伊藤映画のアクションを映像に凝縮。「ギリシャ劇を思わせる」とまで岩崎昶が書いたアウトロー落魄の悲壮なドラマは、サイレント時代劇の最高傑作と評価されている。「下郎」(27年)は若主人のお供で仇討に出た下郎が忠義を尽したあげく主人に裏切られ殺される。後年「下郎の首」(55年)、「この首一万両」(63年)でこのテーマは繰り返し追及される。「一殺多生剣」(29年)では幕末の旗本侍が錦旗をかさに町民を苦しめる官軍に抵抗するが、銃弾を浴び“新しい世が明ける”と叫び死んでいく。「斬人斬馬剣」(29年)は中国地方の百姓一揆を扱い浪人が圧政と闘う傾向映画で、フラッシュ・バックやプドフキンなどの映画理論からの技巧も多用されているという批評がある。

 「新版大岡政談」3部作(28年)は刀の争奪戦がラグビーのような感覚だと評され、大河内=丹下左膳の人気を決定づけ伊藤話術でファンは熱狂。「素浪人忠弥」(30年)は幕府転覆を計る由井正雪のブレーン・丸橋忠弥が、党内の裏切りにあい捕えられ処刑される悲劇。「興亡新選組」(30年)は単なる剣豪ではなく歴史の流れの中で苦悩し、惨めな末路を迎える近藤勇を中心にした維新ドラマ。「侍ニッポン」(31年)と、そのトーキー版リメークで阪東妻三郎と最初のコンビ「新納鶴千代」(35年)は、井伊大老の落胤・鶴千代が桜田門の暗殺に加わる心の動揺。激動の歴史のなかで反逆の血を燃やし悲壮な最後を遂げるヒーローたちを、検閲に精一杯の反抗をこめて描いて秀作である。評価の高い作品は失われているが、サイレントで現存する唯一の「御誂次郎吉格子」(31年)は、鼠小僧次郎吉が江戸を逃れて上方へ向かう船の中で出会った二人の女との恋模様を流麗な語り口で描く。「薩摩飛脚・東海篇」(32年)は大ヒットするが、大作「忠臣蔵」(34年)が失敗作になり、初の股旅物「唄祭り三度笠」(34年)を最後に日活を去る。以後、嵐寛寿郎「鞍馬天狗」(42年)、千恵蔵の「宮本武蔵・二刀流開眼」(43年)あるがスランプに陥る。

 戦後第1作は「素浪人罷通る」で、天一坊と伊賀亮を題材に占領軍の制約からチャンバラが撮れなくなっていたが、御用提灯の追手に囲まれた伊賀亮が屋根の上から対決する立回りに健在ぶりを見せ、「王将」(48年)で明治末を舞台に将棋の坂田三吉を映画化し、見事な復活を遂げる。三吉を阪東妻三郎が「無法松の一生」と並ぶ名演技で圧倒した。無学文盲のため名人位につけない三吉の無念は伊藤映画に多い敗者の悲壮感があふれ、臨終の妻・小春に電話で呼び掛けるラストは泣かせた。原作者・北条秀司がその後発表した『続・王将』を含めて辰巳柳太郎、島田正吾で55年に「王将一代」として、日本棋院に破門されていた三吉が20年ぶりに入江名人と対決する晩年まで描き、62年の三国連太郎の三吉で二度リメークする。「われ幻の魚を見たり」(50年)は十和田湖で紅鱒養殖に執念を燃やした和井内貞行も一代記で、長期ロケを敢行して12年来の企画を実現させ、作品系列のなかでも異色の力作。大河内傳次郎と16年ぶりに組むがこれ以後二人のコンビ作はない。

 アメリカから帰国したあこがれのスターだった早川雪洲で「遥かなり母の国」(50年)、「レ・ミゼラブル/前篇」(50年)を撮るが成功作ではない。51年の松竹の正月映画「おぼろ駕篭」阪妻、田中絹代、山田五十鈴の強力スター・バリューでヒットさせ、この年の興行収入2位の松竹30周年記念映画「大江戸五人男」(51年)を阪妻の幡随院長兵衛、市川右太衛門の水野十郎左衛門などオールスターで撮り、商業監督の手腕も発揮。長谷川一夫と初顔合わせで「次郎吉格子」(52年)をリメーク、江戸時代の能楽師親子の葛藤「獅子の座」(53年)、番町皿屋敷怪談「お菊と播磨」(54年)、「女と海賊」(59年)まで4本コンビを組み、鶴田浩二で大映ビスタビジョン第1作「地獄花」(57年)を撮る。市川雷蔵と組んだ「弁天小僧」(58年)と、「切られ与三郎」(60年)の2本は歌舞伎狂言もので様式美も取り入れ、前者のラストでも御用提灯の灯の海がカラーで鮮やかな効果をあげた。

 松竹の企画からはずされた大仏次郎原作『築山殿始末』の映画化は長年の夢だったが、61年に中村錦之助で「反逆児」として実現した初の東映作品。家康の子で名将の誉れ高い三郎信康が、今川の血を引く母と信長の娘で妻・徳姫の反目に苦悩し、政略のため切腹し果てる悲壮美にあふれ、後期の傑作になる。山岡壮八原作『徳川家康』(65年)は錦之助主演で家康の若き日に焦点を置いて映画化し、桶狭間の闘いが迫力ある見せ場だった。68年、錦之助プロが京都府と提携した「祇園祭」はポスターに山内鉄也と共同監督になっているが、伊藤は撮影開始前に降りトラブルの多かった映画だ。この共演者、錦之助、三船敏郎に仲代達矢、吉永小百合などが加わった豪華キャストで司馬遼太郎の『竜馬が行く』をベースに「幕末」(70年)を映画化。監督作はこれが最後で、内田吐夢監督の遺作「真剣勝負」(71年)のシナリオを書き、晩年は錦之助の舞台「反逆児」などの台本を書き演出を担当している。26年、「京子と倭文子」の主演女優・伊藤みはると結婚。その後離婚し、37年笹井朝子と再婚した。62年紫綬褒章受章。未映画化シナリオ『寺田屋事変』『白井権八』(62年)、戯曲『柳』(68年)、『大江戸物語』(70年)、『新雪南部坂』(76年)などは淡交社から85年に出版されている。聖徳太子の映画化を夢見ながら実現せず、81年7月19日死去。墓は京都御室連華寺にあり、片岡千恵蔵の墓もここにある。

◆監督作品

1958.11.29 弁天小僧
1959.07.12 ジャン・有馬の襲撃
1960.07.10 切られ与三郎

◆脚本作品

1959.07.12 ジャン・有馬の襲撃
1959.11.22 薄桜記
1960.07.10 切られ与三郎
1966.11.09 眠狂四郎無頼剣

◆共同脚本作品/衣笠貞之助

1963.01.13 雪之丞変化