山本富士子

1931年12月11日/大阪府

いまさらいうまでもない日本一の美女。昭和二十六年のミス日本から、鳴りもの入りで映画界に迎えられた、美女中の美女である。53年、大映入社。「花の講道館」で、長谷川一夫の相手役としてデビュー。その後、63年に、東宝の「憂愁平野」への出演を強く希望して永田社長の怒りを買い、退社するまでの十年間を、大映の看板女優として過ごした。

大映をやめて、フリーとなった彼女は、当時の五社協定のため、それ以後は映画に出演することができず、舞台とテレビにその活動の場を移した。そして、いまでは舞台女優としても立派に成長し、貫禄十分な美しい姿を見せている。

映画女優としての彼女の代表作を挙げるとすれば「夜の河」(56年)であろうう。その作品で彼女は演技開眼したといわれる。「夜の河」の主人公は、京都堀川の古い京染屋の娘キク。物語は、キクと妻子ある大学教授との恋をたて糸にして、仕事に生甲斐を賭けながらも、微妙にゆれるキクの女心を、横糸にからませ、展開する。この中で彼女は、許されぬ恋に身を焼く女心の葛藤を、鮮やかに描き切った。いけないと思いながら、それでも男の腕の中で燃えたぎっていく情念のほと走り、大文字焼きの炎で、真っ赤に染まった夜空を背景にした旅館の一室から、やがて、激しい慕情を秘めながら、一人で生きていく決心を固めるラストシーンへ。綴織のように、絢爛と、また、妖しく変化する女心の機微を、艶やかに演じ、ミス日本の美人女優から、本格的なスター女優へと成長したのである。キクという、たおやかな京女の持つ、心の強さが、山本富士子の凛とした美しさに、ぴたりとはまり、この恋物語を、甘さを抑えた味わい深い作品に仕上げたのである。

彼女は和服がよく似合う、日本古来の女の美しさを身上としたが、同時に、日本女性が持つ気丈さ、芯の強さも、合せ持っていた。柔かさの中に秘められた鋭さとゆるぎなさが、彼女を単なる美女以上の存在にしたのである。日本映画の女優達が、急速にバタ臭くなっていった時期に、彼女のこうした女性らしさは貴重な存在であった。

「金色夜叉」(54年)、「湯島の白梅」(55年)、「日本橋」(56年)、「白鷺」(58年)とった明治ものに主演。明治に生きた女の哀感と、運命に流されながらも、自分の姿勢を決して崩さなかった気丈を演じこなしたのである。そして、その頂点をなすのが、前記「夜の河」であった。現代とはいえ、古い京都のに、生れ育ったキクの心の強さを、キッパリと演じ、彼女の持てる魅力の全てを出し切り、本格的なスターの座を確立した。

「氷壁」(58年)。ナイロン・ザイル切断を扱った井上靖の人気小説の映画化では、ヒロインの憂いある人妻の役を、見事にこなし、また、志賀直哉の名作「暗夜行路」(59年)でも、複雑なかげりのある人妻役を好演。華やかな美貌の裏にひそむ苦悩の内面描写に、演技の深さをみせたのであった。

こうした文芸作品の他にも、彼女の豪華絢爛とした美しさを、前面に押し出した娯楽映画には「源氏物語・浮舟」(57年)、「夜の蝶」()、「千姫御殿」()等があり、とくに市川雷蔵と共演した「人肌牡丹」(59年)、「かげろう絵図」(59年)は時代劇の楽しさを、十分に堪能させるものであった。

62年3月、作曲家の古屋丈晴と結婚。翌63年、前記のいきさつにより大映をやめ、フリーとなる。64年、大阪歌舞伎座で初舞台を踏み。舞台女優としての新しい境地を開拓した。彼女の大輪の牡丹のような美しさは、舞台でも一際映え、著しい進歩を見せている。

1955.04.24 薔薇 いくたびか
1955.06.26 行状
1956.07.25 頭巾
1956.08.14 銭形平次 捕物 人肌 蜘蛛
1956.10.17 月形
1956.11.07 頭巾
1957.01.15 スタジオはてんやわんや
1957.03.20 朱雀門
1957.09.29 鳴門
1957.44.30 源氏物語
1958.04.01 忠臣蔵
1958.04.29 ける
1958.08.03 人肌 孔雀
1959.01.03 人肌 牡丹
1959.06.03 次郎 富士
1959.09.27 かげろう 絵図
1960.04.27 大江 童子
1960.05.18 行燈
1960.10.18 菩薩
1960.12.27 菩薩 竜神
1961.11.01 釈迦
1962.01.03 悪人
1962.05.12 仲良 音頭 日本一 だよ
1962.11.01 始皇帝
1963.01.13 変化