呉服問屋に生れる。四人姉弟の末子で長男。生後間もなく父が死去。家業が傾き、4歳のとき母とともに大阪市九条町の次姉の家、さらに小学校時代に同市天満町の三女夫婦宅へ移った。市岡商業へ進むが、脊椎カリエスと診断されて2年で中退し、長野県篠ノ井町の親類宅で静養。幼時から好きだった絵を描いて日を送り画家を志すが、同地で見た伊丹万作監督「国士無双」(32年)に感動、志望を映画界に向けた。カリエスは誤診とわかり大阪へ戻って、33年、知人の紹介で、発足したばかりのJ・Oスタジオに入社。発声漫画部に属し、アニメ「玩具箱」シリーズの下絵描きをした。ここで企画、原案、脚本、コンテニュティ、作画、撮影まで一人で担当したことと、参考資料のディズニーやポパイの漫画映画を研究できたことが後年役立っているという。そのころ『週刊朝日』の実話小説募集に入選。応募には本名・儀一を使わず、崑とした。36年6月、J・OがP・C・L、東京宝塚劇場と提携して東宝ブロック入り。旧J・Oの東宝京都撮影所で石田民三に、次いで39年、東京の東宝撮影所で中川信夫、青柳信雄、阿部豊らにつく。太平洋戦争末期には人形劇映画「娘道成寺」に没頭したが、戦後、その脚本が占領軍の検討を受けなかったとの理由で公開の機会を失った。
47年、東宝大争議さなかに同社の製作部門として設立された新東宝へ移る。同社第1作のレビュー映画「東宝千一夜」の構成・演出を助監督の身分のまま担当。48年、野上弥生子・作『真知子』の映画化「花ひらく」で監督デビューする。以後、大ヒットした「三百六十五夜」(48年)をはじめ「人間模様」(49年)「夜来香」「ブンガワンソロ」(51年)など、主に通俗メロドラマを手掛けた。51年東宝に移籍。東宝第1作「結婚行進曲」(51年)から、早口言葉の応酬、都会センスにあふれた画面づくりなど、俄然自分の実験をフィルムにたたき込むようになる。「ラッキーさん」「若い人」「足にさわった女」(52年)を経て、横山泰三の漫画の映画化「プーサン」(53年)の“社会戯評”では、彼独特の資質を印象づけ、「日本映画には珍しい知的な風刺コメディ」(野口久光)と高く評価されたが、軽佻浮薄、観念過剰の失敗作もあった。
その後も「愛人」(53年)、「わたしの凡てを」「女性に関する十二章」(54年)などの作品を手掛け、55年日活に移籍。夏目漱石の『こころ』の映画化を境に文学作品を原作としたシリアス・ドラマへ向い、「ビルマの竪琴」(56年)、大映に転じて「炎上」(58年)、「鍵」「野火」(59年)、「おとうと」(60年)、「破戒」(62年)と1作ごとにスタイルを変えて実験を試みた。ほかにも「処刑の部屋」「日本橋」(56年)、「東北の神武たち」「穴」(57年)、「あなたと私の合言葉・さよなら、今日は」(59年)、「女経」「ぼんち」(60年)、「黒い十人の女」(61年)、「私は二歳」(62年)、「雪之丞変化」「太平洋ひとりぼっち」(63年)など多数あり、映画での人工美の探究に異常なほどの意欲を燃やした。色彩映画では特に顕著で、映像美構成のテクニックではこの時代のトップにランクされ、ピークを迎える。65年に手掛けた最初のドキュメンタリー「東京オリンピック」では、望遠レンズを駆使した150台のカメラで、競技の勝負より選手の表情や動作を追い、オリンピックを地球人の祭り、人間讃歌ととらえ、担当大臣と「記録か芸術か」の物議をかもしたが、日本映画史上空前の興行記録を打ち立てた。以後の五輪記録映画を“市川調”に変えてしまったほど、その映像は強烈な印象を残している。
以後は「トッポ・ジージョのボタン戦争」「京」(67年)、「青春」(68年)、「愛ふたたび」(71年)と作品の間隔が空くようになり、このころの映画界はテレビに押されて方向性を失いつつあったが、あふれる好奇心はいち早くテレビ界にも関心を向け、VTRのシャープな光と影を追求した『源氏物語』『木枯し紋次郎』『丹下左膳』などを作り続けた。73年、テレビのギャラをもとに崑プロダクションを設立。ATGと提携して「股旅」を製作・監督した。同年、世界10監督分担のミュンヘン・オリンピック記録映画「時よとまれ、君は美しい」で、男子100メートルレース部分を担当。次いで「我輩は猫である」(75年)、「犬神家の一族」(76年)と再び映画のメジャー作品に復帰した。ことに後者は気鋭のプロデュサー・角川春樹が旗揚げした角川春樹事務所の第1回作品で、以後、日本映画界を席巻する“角川映画”の記念すべきスタートとなった作品である。興行的にも大ヒットを記録し、出版界を巻き込んだ原作者・横溝正史ブームのなか、石坂浩二ふんする名探偵・金田一耕助を主人公とする諸作がシリーズ化され、シリーズ最高傑作の呼び声も高い「悪魔の手毬唄」(77年)以下、「獄門島」(77年)、「女王蜂」(78年)、「病院坂の首縊りの家」(79年)の5本を監督した。
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