第一作の『薔薇大名』は、自分に向いた題材でした。これまでああ云った明るい傾向のものを提出していたので、あいつは、こんなものがいいのだろうと云うことでまわって来たのでしょう。準備期間が二十日間ばかりあったのが大変有利でした。

 先ず、若い世代にアピールするものにするには、リズムとテンポがなければ、生理的について来れないと考えました。人物の動かし方がいかに面白くても、現代に通じるアクションでないなら不自然になってしまう。そこで例えば、あの中の茶店は喫茶店へ、芝居小屋はエキサイトしたロカビリー小屋へと、今あるものに置き換えて共通性を見つけようとしたのです。セリフで現代語を使ったり、英語を混ぜたりしても少しも新しくはない。画面からのムードが現代に通じている、共通点があるということが、肝心のことだと思います。

 あの作品は、自分に慣れない生活環境置かれた面白さを、皮肉めいて描いたものです。僕なら僕が、皇太子になったらと云ってもどうなるか考えもつかないが、僕を知っている他の連中はそれが解っておかしい訳です。子供の頃に読んだ「乞食王子」なんです。だからあの作品の場合にも、登場人物自身は大真面目に悩み、苦しがっているのに、見ているお客の方は、よく分っているという優越感があるから面白いし、笑っていられるのです。そういった面白さを狙って、それを感情的な誇張で表現してみたいと思い、カッティングやカメラワークに気をつけました。

 で、その際の技術的なことに関して、小手先の器用云々がいわれますが、実際に十年も助監督をしていると、その間に色々な自分のアイデアが引き出し一杯にたまっているものです。いざ自分のものが撮れるとなると、その保存がきかなくなって、つい小手先めいたことが目立つし、表面に出て来るのでしょう。堅くもなるでしょうし、客観性も薄くなって、とにかく自分のイメージに入り込まないとOK出来ないわけです。それは新人監督の喜びと意気の現れなんでしょうが、イヤ味になったり鼻についたりしてはいけないと自制はしています。社会観、人生観なども、何本かやっていけば大きくなって行くのではないでしょうか。今は、全体のムードに、僕が撮ったという感じを出すことだと思います。

 今は二本目の『天下あやつり組』を撮っていますが、これも傾向は同じものです。コスチュームが違うだけで、すべて現代にあるものばかりです。現代劇は時代劇のスタイルを借りようとしているし、逆に時代劇は現代劇のスタイルを借りようとしている。それでいいんじゃないでしょうか。人間の本質に変りはないはずだし、共通点はあります。時代劇こそ新しい面白さを見つけ出す手をつけていない分野だと思います。僕は、今までと違ったものを混ぜてみたい。戯画化するだけが風刺とはいえないが、大きな意味での風刺を出してみたい。

 股旅ミュージカルなどやってみたいものの一つです。時代劇のミュージカルは、下手に現代劇の真似をすれば負けるに決っているし、時代劇の定石、常識的な芝居、その中での何人かが水と油である方が面白くなると思うのです。

(時代映画61年2月号より)