木村 恵吾(きむら けいご)

1903年6月19日/静岡県三島市

早稲田高等学院2年終了で、27年、日活大将軍撮影所に入社。脚本部に入って、シナリオを書きまくる。30年、帝キネに移って『若き血に燃ゆるもの』で監督としてデビュー。31年、帝キネが新興キネマに引きつがれるに及んで、京都撮影所時代劇を作り続ける。その間、特筆すべきことは、監督歴10年目で『狸御殿』(39年)というファンタスティックなオペレッタ風刺劇の新分野を開拓して、当時としてはめったに例のない3週続映という快記録を樹立したことと、B級会社新興が紀元2600年奉祝映画として全力をかたむけた大作か「国姓爺合戦」(40年)の監督に選ばれて、見事大ヒットを飛ばしたことである。いわゆる臨戦体制によって新興が大映に吸収されるに及んで、徹底したミュージカル仕立ての「歌ふ狸御殿」(42年)を高山広子と宮城千賀子の共演で大ヒットさせたが、翌年、37歳で応召。戦後も「花くらべ狸御殿」(49年)で水の江滝子、京マチ子を中心に絢爛たるミュージカルをくりひろげて、お家芸の健在ぶりを示した。それとともに、大映のドル箱スター、京マチ子を売り出す切札として「痴人の愛」(49年)を成功させ、それからも、「浅草の肌」(50年)、「牝犬」「馬喰一代」(51年)と、京マチ子の肉体的魅力を生かしきって、風俗作家としての信頼度を定着させた。「狸穴町0番地」(65年)を最後に大映を離れてからは作品がなく、テレビ映画の演出をしたが、自分のペースに合わないといっていさぎよく手を切り、晴耕雨読の日々を送ったという。86年1月20日胃ガンのため死去。

1954.10.20

千姫

1959.12.27

初春狸御殿

脚本

1959.12.27

初春狸御殿