三隅 研次(みすみ けんじ)

1921年3月2日/京都府京都市

 41年、立命館大学高等商学部を卒業。同年、知人の紹介で日活京都撮影所に助監督として入社したが、42年はじめ応召。45年の敗戦まで満州で兵役に服し、シベリアに抑留されて47年に帰国。大映京都撮影所の助監督となり、、伊藤大輔、松田定次、衣笠貞之助らに師事する。54年10月、監督に昇進。第1作は大河内伝次郎の「丹下左膳・こけ猿の壺」である。そのあと着実に時代劇を撮り、61年には日本最初の70ミリえいが「釈迦」の監督に当った。釈迦の伝記をアクションの多いドラマに仕上げた大作で、無難にでき上っている。しかし三隅の実力は62年の「座頭市物語」に、よりよく現れている。盲目の座頭が名剣士だという剣戟を、三隅は人物の性格と剣のスリルをうまく調和させ、一つの型を作ることに成功した。これは犬塚稔の脚本の助けもあって見事に成功し、勝新太郎の十八番となって、シリーズが何人もの監督で演出された。三隅も「血笑旅」(64年)、「地獄旅」(65年)、「血祭り街道」(67年)、「喧嘩太鼓」(68年)、「あばれ火祭り」(70年)などの「座頭市」シリーズを6本を作ったほか、「酔いどれ博士」(66年)、「とむらい師たち」(68年)、「鬼の棲む館」「尻啖え孫市」(69年)、「狐のくれた赤ん坊」(71年)などで勝と名コンビぶりを発揮。また、勝とともに大映を支えた市川雷蔵の「大菩薩峠」2部作、そして「眠狂四郎」シリーズも、「勝負」(64年)、「炎情剣」(65年)、「無頼剣」(66年)など3作、さらに「剣」「無宿者」(64年)、「剣鬼」(65年)など、雷蔵にとっての代表作であるとともに、大映時代劇の頂点に立つ傑作を数多く撮った。

 一方では、山本周五郎の小説から作った「なみだ川」(67年)のように、江戸の片隅に住む姉妹の恋を優しく見つめながら情緒をこめて描写した映画もあり、三隅の時代劇には細かな感情が盛り込まれていた。ほかに特撮時代劇「大魔人怒る」(66年)もある。大映が倒産した後は、勝プロで若山富三郎主演の「子連れ狼」(72年)を演出して大ヒットさせ、これもシリーズとなって、三隅は73年までに4作を監督し、チャンバラの醍醐味を十二分に堪能させた。その後は、テレビを主な舞台として、日本テレビ『大いなる旅路』(72年)、『唖侍・鬼一法眼』、フジ『木枯らし紋次郎』(73年)、『座頭市物語』(74年)、『痛快!河内山宗春』(75年)、NET『狼・無頼控』(73年)、テレビ朝日『天皇の世紀』(71年)、『必殺仕掛人』(72年)、『必殺仕置人』『助人走る』(73年)、『暗闇仕留人』(74年)、『必殺必中仕事屋家業』『必殺仕置屋家業』(75年)など、テレビだけの監督には出せない面白さと、時代劇特有の映像美を見せ、テレビでも確固たる地位を築いた。映画は松竹の時代劇大作「狼よ落日を斬れ」(74年)が最後となった。75年9月24日、閉塞性黄疸で死去。時代劇映画の退潮を象徴するかの如き死であった。

 

抑圧と殺気の映画

横長画面の鮮烈な構図 -三隅研次の回顧上映-

 

1956.03.28 浅太郎鴉
1956.06.08 花の兄弟
1956.12.28 編笠権八
1957.12.15 桃太郎侍
1959.05.20 千羽鶴秘帖
1960.10.18 大菩薩峠
1960.12.27 大菩薩峠・竜神の巻
1961.11.01 釈迦
1962.02.21 婦系図
1962.07.01 斬る
1963.01.03 新選組始末記
1964.01.09 眠狂四郎勝負
1964.03.14
1964.08.08 無宿
1965.01.13 眠狂四郎炎情剣
1965.10.16 剣鬼
1966.11.09 眠狂四郎無頼剣