森 一生(もり かずお)

1911年1月15日/愛媛県松山市

九州の八幡製鉄所に資材を納めていた父の商売の関係で八幡に移り住み、23年、福岡県立八幡中学に入学するが、3年途中で愛媛県立今治中学(現・今治西)に転校、4年終了で松山高等学校に入り、30年に卒業。京都帝国大学文学部に進み、33年に卒業する。松山高校時代にプドフキン、エイゼンシュタインの映画論に接し、京大では美学を専攻する。大学はでたけれど就職難の時代。友人の伯父に日活取締役・杜重直輔がいたことから、33年、日活太秦撮影所に入社する。助監督部は定員過剰で脚本部研究生とされた。翌34年8月、製作部長・永田雅一が伊藤大輔、溝口健二らのスタッフをひきつれて第一映画社を設立。森も同行、助監督に転じて、伊藤の「建設の人々」「お六櫛」などにつく。36年、第一映画社は経営の破綻から解散。永田が新興キネマ太秦撮影所長に納まってしまい、伊藤も新興入りしたのでついて行く。同年10月、監督に昇進。依田義賢脚本、月田一郎、森静子主演「仇討膝栗毛」でデビューする。同社で時代劇を撮り続けるが、新興キネマ時代の代表作は市川右太衛門主演「大村益次郎」。42年、新興キネマは大日本映画製作株式会社(大映)に吸収され、森も移籍。同年赤穂浪士をバック・アップした天野屋利兵衛を扱った佳作「大阪商人」で注目される。利兵衛と彼を取り調べる奉行の対決と人間的交流を通して大阪商人の土性骨を描き出したところが異色だった。同作品を完成させると陸軍に応召、二等兵として中国大陸に渡り太原の奥で終戦を迎え、45年に復員する。

大映京都撮影所に復職したが、時代劇は占領軍に封じられ、現代劇を撮る。49年の二本柳寛、水戸光子主演の「わたしの名は情婦」もその一つ。強盗犯人の情婦と呼ばれる女をしつこく追いかける新聞記者の非情さをえぐり出す、鋭い切れ味の演出であった。間もなく時代劇が復活。54年、「決闘鍵屋の辻」は、黒澤明の脚本の映画化で、おなじみ荒木又衛門の伊賀の仇討ちを史実にもとずいて再現したドラマである。主演は三船敏郎と志村喬。徹底してリアリズムをつらぬいた作風が注目され、決闘の焦燥感、緊迫感、悲愴さが生々しかった。57年、再び黒澤脚本で山中峯太郎原作「敵中横断三百里」を菅原謙二主演で監督。前作ほどの成功は得られなかったが、当時の日本映画では珍しくスケールの大きいアドヴェンチャー映画であった。59年には市川雷蔵、勝新太郎の顔合わせで「薄桜記」を作り、伊藤大輔ばりの巧みな語り口を見せ、60年の「不知火検校」では二枚目スター勝新太郎を坊主頭の悪漢に仕立てて新境地を開拓させ、「座頭市」シリーズを生むきっかけをつくった。67年の市川雷蔵主演「ある殺し屋」も、イタリア映画「殺しのテクニック」からヒントを得たようだが、一見平凡なサラリーマン・タイプの殺し屋の日常を冷徹につづった秀作。雷蔵の好演も光るが、格調ある描き方と語り口のうまさが出色であった。71年、大映倒産後は、テレビ映画へ転出するが、『木枯し紋次郎』『狼無頼控』『座頭市物語』で、みずみずしい演出を見せた。戦中・戦後の大映時代劇を支え100本以上の作品を撮ったが、多くの秀作を残したことは特筆に価する。89年6月29日午後10時39分、肝不全のため死去。

1956.08.14 銭形平次捕物控・人肌蜘蛛
1956.12.12 あばれ
1957.03.20 朱雀門
1957.07.02 弥太郎笠
1957.08.06 万五郎天狗
1957.09.21 稲妻街道
1958.06.10 七番目の密使
1958.08.03 人肌孔雀
1959.01.03 人肌牡丹
1959.03.14 若き日の信長
1959.06.03 次郎長富士
1959.11.22 薄桜記
1960.02.17 濡れ髪喧嘩旅
1960.06.01 続・次郎長富士
1960.11.22 忠直卿行状
1961.04.05 おけさ唄えば
1961.05.17 大菩薩峠・完結篇
1961.10.14 新源氏物語
1962.07.29 江戸へ百七十里
1962.12.15 陽気な殿様
1963.06.30 てんやわんや次郎長道中
1963.12.28 新忍びの者
1964.04.18 昨日消えた男
1964.11.14 博徒ざむらい
1965.06.12 忍びの者伊賀屋敷
1966.02.12 忍びの者新・霧隠才蔵
1966.09.17 陸軍中野学校雲一号指令
1967.04.29 ある殺し屋
1967.08.12 若親分兇状旅
1967.12.02 ある殺し屋の鍵