吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう)

1911年9月9日/滋賀県坂田郡山東町
三男一女の三男。父は“正大公明”を念頭に順に、正一郎、大二郎、公三郎、明子と命名したという。父の平造は山東町柏原の庄屋の三男で、明治法
律学校(現・明治大学)を出て朝日新聞記者、大阪市助役、広島市市長をつとめたのち北海道、東京、小倉などの会社役員を歴任した。家族も任地に
従って転々、公三郎は京都の小学校に入ったが、父が東京・隅田川の蒸気船会社社長になったため、東京・本所の小梅小学校に転校。中学は岐阜県
大垣中学(旧制)で4年のとき集団サボダージュ事件にかかわり停学。京都大学進学コースをあきらめて、東京・私立日本中学(現・日本学園高校)へ転校、
29年に卒業した。

大垣中学時代から校則を犯して映画を見、東京へ転校後ははばかることなく神田淡路町のシネマパレスに通い、外国映画に浸って映画青年になる。「好
きだった監督はムルナウ、ガンス、チャップリン、スタンバーグ、エイゼンシュテイン、プドフキン」と回想している。一方、詩や小説も読みあさり勉強はそっちのけで、
高等学校入試は全部落ちた。ふと映画監督を思い立ち、父に相談、承諾を得て親類筋の松竹蒲田撮影所所長代理・堤友次郎の世話で、29年5月、同
所助手見習いで入社。堤の指示で島津保次郎についた。同門先輩の五所平之助、豊田四郎、成瀬巳喜男、後輩の渋谷実、木下恵介、中村登らもが
いずれものちの巨匠格だ。

吉村は「多情仏心」29から「浅草の灯」37まで島津の全作品でしごかれると同時に、博識と機動性を買われてかわいがられた。この間の32年から1年間、徴
兵で敦賀の連隊に入隊したが、撮影所・美術の金須孝の感化で社会主義思想に共鳴。金須の関係する築地小劇場の仕事を手伝ったりデモに参加。小
林多喜二、立野信之らプロレタリア作家とも知り合ったことから“要注意人物”にされた。
34年、サイレントのナンセンス短編喜劇「ぬき足さし足・非常時商売」で監督デビュー。原作・脚色も自身で、10歳の高峰秀子が出演した。当時の所長・城
戸は新人の短編ドタバタ喜劇を昇進テストとしていたが、吉村は落第、島津の助監督に逆戻りした。同時に五所、成瀬の助監督もつとめ、五所による国産
本格トーキー第一号「マダムと女房」31でカチンコを打っている。
35年、吉村脚本による島津の「彼は嫌いといいました」が封切られた。同年、島津は谷崎潤一郎の『お琴と佐助』の映画化を図るが、
詩人で映画評論家の北川冬彦に「原作者の人生観を理解しないで映画化を試みるとは」と批判された。島津はこれに反論して、『映画評論』や『キネマ旬
報』誌をにぎわせたが、この反論原稿は実は吉村が代筆していた。36年1月、撮影所が蒲田から大船へ移転。同年、父と母を相次いで失う。
35年に豊田、37年に渋谷がいずれも吉村より先に監督になるが、吉村も39年1月に昇進。第一作は竹田敏彦原作、野田高梧脚本の「女こそ家を守れ」
だった。続いて「陽気な裏町」「明日の踊り子」を撮り、さらに助監督についた木下恵介の脚本を採用して「五人の兄妹」を監督する。39年6月、島津が「兄と
その妹」を最後に高額ギャラに誘われて東宝へ移籍。島津が松竹の次回作に予定していた岸田国士原作「暖流」を吉村が受け継いで、キネマ旬報べすと・
テンに7位となる。ちなみに島津の「兄とその妹」は4位だった。同年10月の映画法施行以降、ソフトな大船調にもやむなく作品の戦時色が強まる。その1作
目、40年の「西住戦車長伝」は軍神ものだが、上原謙が主人公を演じてベスト・テン2位。早くも監督の地歩を固めた。続く「間諜未だ死せず」42、「開戦の
前夜」43は国策迎合的スパイ映画だが、アメリカ映画ばりの娯楽サスペンスを盛って気骨をみせた。43年10月、陸軍省委属の増産映画「決戦」の撮影アッ
プ直前、応召の赤紙がくる。渋谷実らが四谷の待合で開いてくれた送別会の翌日、渋谷にも赤紙がきた。「決戦」を助監督の木下と萩山輝男に任せて出
征。機関銃小隊長として南方戦線に派遣され、のちタイのバンコク方面軍司令部情報部に勤務した。
終戦後、同地で捕虜生活ののち、46年7月に帰還。大船撮影所に復帰して、コメディ「象を食った連中」47を撮る。続く同年の「安城家の舞踏会」を新藤
兼人脚本で手掛けベスト・テン1位。新藤脚本、吉村演出コンビの起点となった。ベスト・ワンの自信からさらに軽妙、重厚を作りわけ、華麗なメロドラマ「わが
青春のかがやける日」48、コミカルな新解釈「森の石松」49を経て、50年に松竹を退社。新藤と近代映画協会を設立し、同志的連帯をさらに強めた。51
年、大映京都で新藤脚本により、きりっとした京都色街風俗「偽れる盛装」を撮り、毎日映画コンクール監督賞。次いで王朝絵巻「源氏物語」51、歌舞伎
十八番『鳴神』から「美女と怪竜」55、山本富士子の演技力を引きだした初のカラー「夜の河」56と、ベスト・テン入り佳作を次々と生みだす。獅子文六の人
気新聞小説の原作「自由学校」51はライバルで友人の渋谷が手掛けた松竹版と競作となって評判を呼び、一方、本格的文芸映画では「千羽鶴」53をはじ
め、「夜明け前」53、「足摺岬」54、「地上」57、「越前竹人形」63、「眠れる美女」68などをエネルギッシュにこなす。ベスト・テン入りから遠ざかった62年12月、
脳卒中で倒れたが66年、福島県本宮町PTAの母親たちが製作費を工面した「こころの山脈」で見事カムバックしベスト・テン8位。

「安城家の舞踏会」「偽れる盛装」など女性映画の巨匠として知られる映画監督の吉村公三郎(よしむら・こうざぶろう)氏が00年11月7日午前四時、
急性心不全のため、横浜市都筑区中川一ノ二九ノA一〇三の自宅で死去した。八十九歳。滋賀県出身。葬儀・告別式の日取りは未定だが、親族
による密葬となる。喪主は長男、秀実(ひでみ)氏。 

 昭和四年、松竹蒲田撮影所に入社、「暖流」で監督の手腕を認められ、戦後、第二作の「安城家の舞踏会」で華族の没落を通して新時代の到来
を描いた。二十五年、松竹を退社し、新藤兼人監督と独立プロ「近代映画協会」を設立。山本富士子さん、京マチ子さんら看板女優の育ての親と
なった。 


華麗な演出術光る
 
 映画監督・新藤兼人さんの話 吉村さんとは、私が脚本を書いた「安城家の舞踏会」で知り合い、以後、行動を共にすることになった。昭和二
十五年、近代映画協会を共に設立した。 

 吉村さんの代表作は「夜明け前」とよく言われるが、私はそれに「暖流」「安城家の舞踏会」「偽れる盛装」を加えたい。男女の心理描写が得意
で、華麗な演出術が光っていた。中でも「偽れる盛装」は京都の祇園の描写がとてもよかった。五十歳を過ぎて体を壊して現場を離れてからは、
本を読んだり文章を書いたりして豊かな老いの精神生活を送っていたと思う。 

1957.03.06 大阪物語