石上 三登志

 

三隅研次の描き出す映像はたしかに美しい。だがなぜか異様なのだ。ちょうど、まともに見たら美しくない絵を、上下を逆にして見たら美しく見えたような、本来なら美しいはずがないのに、やっぱりそこには美しさがある。

 

 

 私達は様々な物を見て、それを美しいと感じます。それはその物の外見に普遍的な美しさがあるのではなく、それが私達に語りかけてくるものを、私達がどう受け止めるかによって美の意識が生まれます。ある物を見て“美しい.”と感ずる時、実は私達の意識がその対象物に投与され、その中に私達自身の心を見い出すのだといえましょう。花や景色や絵や彫刻など、それが多数の人々の心を受け止める、大きな力を持つものもたくさんあります。

 又逆に、ほとんどの人がそれを“美しい”と感じなくても、ある種の人にはそれが美しい場合もあります。同じ対象物を見ても、その美意識がまったく違った意味となる場合も、勿論考えられます。一つの花の美しさ、太陽の美しさも、それを見る人の意識によって意味が全然違ってくるのは、だから当然でしょう。いずれにしろ、自らの心が、その対象物に写し出されるのにすぎないのです。

 では、私達日本人が“剣”を見て、それを“美しい”と感ずるのは、一体何なのでしょう。たとえそれが一個の完成品であったところで、剣は人斬り包丁にすぎません。剣は斬る事が目的ではなく、守る事が目的であると武士道は伝えています。どっちにしろ本質はかわりません。それは人を傷つけ、殺し、死へ導く道具にすぎないのです。果たして死が美しいのでしょうか。天命を全うしたのならともかく、この場合の死とはあくまでも生からの途中下車なのです。美しいはずがありません。いや天命を全うした所で、やはり死そのものは美しいものではありません。私達が“美しい死”と呼ぶのは、目的を持ったある行為の昇華によって生ずる場合であって、その行為との断絶を美しいとは言いません。そしてそれにしたって、死そのものが美しいはずはやはりないのです。

 だから、たとえいかなる意味があろうと、剣によって斬り、斬られる事に美を感ずる自体、あやまった理論であるとは、私達も思うのです。にもかかわらず、なぜ私達はそれに使われる剣を美しいと思い、ともすれば妖しい魅力に引きずり込まれそうになるのでしょう。死に対する原始的な“おそれ”のなす技なのでしょうか。それもないとは言えません。ならば、むしろその“おそれ”を、美にまで昇華したものは、一体何なのでしょうか。

 明治以後、我が国に導入された海外の思想では、あくまでも“生きる”事が美であり、死は醜なのです。生(性)の謳歌こそ彼等の美学の出発があるのです。そういった彼等の眼からみれば、私達日本人の美意識が理解し難いものに違いない事は、ルース・ベネディクトの「菊と刀」などを持ち出すまでもなく明らかです。彼等にしてみれば、人間は生きる事にこそ目的があり、死ぬ事には目的がないのでしょう。にもかかわらず、あたかも死ぬ事自体が目的であるように、いとも安易に死んでゆく日本人、その死に対し、しかし私達は決して無駄な死とは言いません。“美しい死に方”と賞讃さえするのです。

 私達の美意識を、閉鎖的な死の意識の昇華にまで曲げてしまったものが一体何なのかは、歴史的、民族学的、社会的、心理学的課題であり、この小論では、むしろテーマからはずれます。しかし、私達日本人の精神構造には、未だにこういった意識が根強く残っており、それが事実日本美を形成しているとはいえ、外国人の眼から見れば間違いなく倒錯した美意識以外のなにものでもないという事は言えるではないでしょうか。とにかく私達の日本文化の根底に、研次という作家の作り出す映像美額は理解出来ぬのではないかと思われるのです。