石上 三登志

 三隅研次の描き出す映像はたしかに美しい。だがなぜか異様なのだ。ちょうど、まともに見たら美しくない絵を、上下を逆にして見たら美しく見えたような、本来なら美しいはずがないのに、やっぱりそこには美しさがある。

 

 『剣鬼』(65年)の冒頭で、三隅研次は畳の上に流れる女の髪のクローズアップをパンで追い、私達を映像の世界に巻き込んでゆきました。死の床にある奥方を中央に置いた俯瞰のショットの中に、右に一匹の犬、左に一人の奥女中という構図を作った三隅研次は、そこに狂気の世界を映像化していたのです。枕元から四方に広がる奥方の髪の乱れは、ゴルゴン・メデューサを思わせ、あるいはビアズレーの絵を私に思い起こさせます。奥方から自分の変身と思ってこの犬に仕えよと命ぜられたその奥女中は、その後一人の子を産みます。“犬っ子”とさげすまされた斑平(市川雷蔵)の物語はここから始まるわけですが、本論に入ってからの三隅研次の映像は、むしろビアズレーよりもロートレックの淡白な絵を思わせる色調となります。

 ロートレックの色調が、彼自身の不具物としての感覚に関係があるのかどうかはわかりません。しかしこの場合の“斑平”に限らず、三隅研次の描く主人公達のそのほとんどが肉体的、精神的不具者、“かたわもの”である事は大いに注目すべきです。事実三隅研次の映像美には、生のエネルギーにつながる躍動感はないかわり、それが欠けながらなお張り詰めたような美が厳然として存在するのです。『剣鬼』の斑平が、父親は犬ではないかという疑惑によってさげすまれた精神的不具者であったように、『斬る』(62年)の主人公高倉信吾(市川雷蔵)も又、同じ精神的不具者でした。彼は、藩の為、城代家老の命によって、殿の愛妾を殺害した奥女中(藤村志保)を母に持ち、彼女を打ち首にした男(天知茂)を父に持つ、いわば捨て子なのです。義父と義妹との生活の中で幸せをつかんだと思われた彼もまた、捨て子であるが故にあらぬ嫉妬を受け、その幸福を破壊されるのです。

 同じ雷蔵の『剣』(63年)の主人公、国分次郎も又、精神的不具者であることにかわりはありません。前述した二人と違い、彼の場合は両親共に健在です。にもかかわらず父親は彼に自分の妾を認めさせ、現実を認識させようとし、母親は彼に目もくれず自己の世界で享楽しているといった具合で、彼も又精神的不具者の一人と言えるのです。

 私はこの市川雷蔵主演の『斬る』『剣』『剣鬼』を三隅研次の三部作であり、彼の四十四本の作品中の代表作であると思います。そしてこの三人の主人公、信吾、次郎、斑平は、それぞれ精神的な“かたわもの”であるだけでなく、その結果、剣の世界に埋没し自己を見極めようと試みる方法でも又一致するのです。

 信吾は“三弦の構え”なる異様な剣をあみ出し、放浪の果てに幕府大目付松平大炊頭の警護役となります。次郎は東和大学剣道部の主将となり、剣道によって己を見極めようとします。そして斑平は、名もない武芸者(実は幕府隠密)から剣法を学び、藩の刺客となってゆくのです。