石上 三登志

 三隅研次の描き出す映像はたしかに美しい。だがなぜか異様なのだ。ちょうど、まともに見たら美しくない絵を、上下を逆にして見たら美しく見えたような、本来なら美しいはずがないのに、やっぱりそこには美しさがある。

 

 『斬る』の主人公信吾の父母の絆において結びつけたのは、不幸にも陰謀と策略の中ででした。刺客となった彼女をあわれんだ城代家老は、藩主の怒りのさめるまで二人がどこかに身をひそめ、彼女に子を孕ませよと男に命ずる。一年の後、探索の手によって捕らえられた彼女は、夫の手によって斬られたいと願う。白装束で座る妻、刀に柄杓で打ち水をする夫、刃の上を水が流れる。同じ画面の両端でニッコリ微笑む二人の顔。そこには死によってさえ絶ちきれぬ強い愛があるのです。そして、ふりおろされる剣は太陽の輝きを横切ります。

 二人の愛は太陽です。それは、日陰者の手には触れる事の出来ぬ“あこがれ”のシンボルなのです。この短い、わずかなカットの死のシーンは、回想となり、さらにスローモーション等によって強調され、信吾のイメージとして全編に繰り返されるのです。旅の途中、弟を逃がすため、敵の白刃の前に裸身で立ちはだかり斬り捨てられる女(万里昌代)に、彼は会います。彼女の白い胸の肌に流れる一筋の赤い血。おそろしいまでに神々しい彼女の顔に、彼は見ぬ母の面影を見、そして太陽を想起するのです。ここにも、死を突き抜けて結ばれる姉弟の愛が・・・。

 太陽は愛です、しかし“かたわもの”の意識を通して見た時、それは暖かい恵みでなく、自らは触れる事のかなわぬ絶対美であり、完成美として存在するのです。

 『剣』の次郎も又、太陽にあこがれました。満たされぬ愛へのあこがれを、次郎は信吾と同じく太陽の中に求めたのです。そして『剣鬼』の斑平も、あおり気味の彼のショットの中で、逆光の太陽を背負っていたのです。

 太陽をイメージの中で“あこがれ”としてとらえながらも、しかし日向は彼等にとって無縁の場所でした。合宿の最後の日に、太陽に輝く夏の海原の誘惑にまけた部員の中で、一人次郎だけは合宿に残ります。(映画の内容と違いますが石上氏の文章を尊重します)斑平の場合も又、逆光の中でたえずその表情に暗い陰影を浮かべていたのです。その暗さは、『座頭市物語』のタイトルバックの異様なソラリゼーション世界の中を行く市となって続いています。盲目の市には、太陽にあこがれ、イメージの中にとらえるすべすらなかったのでしょう。彼は再びその異様な画面の中に消え、さらには夕闇の中にフレームアウト(『座頭市血笑旅』64年)して行くのです。

 三隅研次がその作品中随所に描き出す太陽のイメージは、“かたわもの”達の主観を通し、それを象徴化した“あこがれ”の映像に他ならないのでしょうか。