石上 三登志

 三隅研次の描き出す映像はたしかに美しい。だがなぜか異様なのだ。ちょうど、まともに見たら美しくない絵を、上下を逆にして見たら美しく見えたような、本来なら美しいはずがないのに、やっぱりそこには美しさがある。

 『剣鬼』の斑平は異常なまでに花作りの名人でした。彼は花の良く育つ土を嗅ぎ分けるのです。“犬っ子だから”と人は噂する。しかし、彼はせっせと山に行き、土を選り分け、ひたすら花作りに専念し、長屋のまわりを花で飾り立てます。やがて殿に認められ、城の庭まで花を飾り立てた彼は、いつか山間の流れの周囲を花一面に埋める夢を持つ。そしてみごと咲き乱れた谷間の花園の中に、自分を敵と狙う、彼に殺された者の家族達を全員斬り捨て、自らもその花の中に消えて行くのです。

 『斬る』にも又、花が咲き乱れました。梅の花の頃、突然旅に出たいと感じた彼は、三年後に藩主に言う。「野や山を見てまいりました」。

 野や山・・・私達はそこに花のイメージを憶えるのではないでしょうか。同僚の恨みをかって殺された、義父妹の仇を討った彼の旅先に、花はやはりついて行きます。さらに水戸の屋敷で丸腰のまま狙われた時、刺客の喉を突いたのは、床の間に生けられた梅の小枝でした。

 その花は『剣』においては、射られた鳩の血で汚れた次郎の頬を拭く白い百合の花に続きます。

 花の美しさ、それも彼等にとって“あこがれ”であるとも言えましょう。美しい花は、そのまま信吾にとって裸身で斬られた女の美しさに、さらに見ずして死なれた母のイメージに直結するのです。“あこがれ”としての太陽が、永遠に手の届かぬ存在であったのに対して、花は彼等にとってさらに身近な対象になり得ます。それは、母、姉妹、恋人などで代表される女の美しさです。斑平の特技が花作りであったように、花は彼等にとって、手の届く美であるのです。花を作り、花を生け、花を手向ける。それは太陽の絶対美と異なり、人間の手の加えうる半人工的な完成美であるといった点において、彼等の“あこがれ”にさらに密着しているのです。

 しかし、所詮花は永遠の美ではあり得ない。次郎の頬の血を拭い、一瞬のやすらぎを与えたにすぎないように、花はいつか枯れ、しおれ、地に帰ります。愛に飢える“かたわもの”達にとって、花もただ一時の“やすらぎ”しか与えてくれなかったのでしょう。盲目の座頭市にとっては、その“やすらぎ”さえ、道端に咲く単なる植物なのです、彼はそんなものさえ知らぬ気に、赤ん坊のおむつをそこに投げ捨てて通り過ぎて行きます。“かたわもの”の彼等は、さらに身近な完成美を、永遠に自己の手に握ろうと、むなしい努力を続けるのです。