乙羽信子

1924年10月10日/大阪府

本名 新藤(加治)信子 宝塚時代“おカジ”の愛称で呼ばれたお姫様スター、乙羽信子は、50年“百万ドルのエクボ”のキャッチフレーズで、大映入社。「処女峰」でデビュー。翌51年、後の名監督新藤兼人の第1回監督作品「愛妻物語」に主演。この作品は、新藤の亡き妻に捧げる鎮魂歌として、切々たる哀感漂う名作となった。彼女は、新藤を知ることによってその女優としての方向を決定づけられた。27年、大映の看板女優音羽信子は、新藤の脚本・監督による「原爆の子」に出演。そのまま彼の主宰する独立プロ近代映画協会に移り、ともに歩むようになった。その後、新藤作品のほとんどに出演し、社会の暗くわびしい影の部分に生きる女の、虫けらのような生を演じるユニークな女優となったのである。

78年1月18日、彼女は終生のコンビである新藤と結婚した。新藤は最初の妻とは死別、二度目の妻とも別れ、この結婚も今までの非公式な関係を公然としたものにしただけで、式もあげず、住居も別であった。

94年、最期の作品「午後の遺言状」のシナリオ完成時に、彼女が肝臓ガンで「余命は1年か1年半」と医師から知らされた新藤は、「女優の最期を飾るための製作」を決断。本人には知らせず撮り終えた。杉村春子と彼女で老人の行き方を問うこの作品は女性客を集め大ヒット、映画賞を独占するが、彼女は映画公開に先立ち94年12月に亡くなった。

1957.44.30 源氏物語