天知茂

1931年3月4日/愛知県

本名:臼井登 父親が寿司屋、兄は写真家。男ばかりの五人兄弟の末っ子で可愛がられて育つ。絵が得意な可愛い少年だった。49年、東邦商業高校在学中に役者を目指し、学校を辞め京都へ。松竹下加茂にアルバイトの端役として入社。芸術への志は高いが仕事は全くなく、がりがりに痩せていた。

松竹をクビになった後、51年、新東宝のニューフェースに合格し、天知茂を名乗るが、二枚目としても、三枚目にも悪役としても売り出せず、端役の仕事ばかりをこなす。54年、23才の時「恐怖のカービン銃」(54年)で初の主役を得る。『俺みたいないい男がなんで悪役・・・!』と文句を言うが、森悠子(後の天知夫人)に『むこうではギャングスターで一流の人が大スターになれるのよ』と諭される。57年、夫人と結婚。61年に新東宝がつぶれるまで、石井輝男監督作品などに悪役で出演し、アクション悪役スターとして売り出す。中川信夫監督作品では「憲兵と幽霊」(58年)「女吸血鬼」「東海道四谷怪談」(59年)などに主演し、熱演。カルト俳優でしかも究極の色悪役者となる。 

62年の新東宝倒産後、大映に移り、市川雷蔵が嫉妬するほど三隅研次監督に可愛がられる。「座頭市物語」(62年)の平手御酒役は最高の演技で、座頭市の好敵手で胸を病む孤独の剣客を鮮やかに演じ、「座頭市」シリーズ化へ貢献した功績は大であり、天知茂の名を世間に知らしめた。このとき天知31才。

65年の舞台、三輪明宏主演の「黒蜥蜴」で、作者の三島由紀夫からぜひにと頼まれて明智小五郎役を引き受ける。以来、亡くなるまで明智小五郎を演じ続けた。一番美しい自分の顔をご婦人に見せることに心をくだき、長谷川一夫のメイクを研究。マダムキラーへの道が始まった。

TVでは67年「ローンウルフ・一匹狼」、73年「非情のライセンス」、77年「江戸川乱歩・美女シリーズ」と、マダムキラーの名をほしいままにした。「非情のライセンス」の会田健は不治の病のために死ぬ予定だったが、ご婦人達の助命嘆願で不治の病が治ったことになり生き延びてしまったほどだ。が、85年7月、蜘蛛膜下出血で突然倒れ、7月27日に死亡した。55才だった。

1962.07.01 斬る
1962.09.16 剣に賭ける
1962.12.15 陽気な殿様
1963.01.03 新選組始末記
1963.04.21 第三の影武者
1966.11.09 眠狂四郎無頼剣