ここでは主として、僕の時代劇シナリオについて書く。はじめて手がけたのが、『新選組始末記』で、それから一年有半、たちまち現代劇の需要が減ってしまって、その内訳は、時代劇八本、現代劇三本。すなわち、

『新選組始末記』『暴動』『第三の影武者』『座頭市兇状旅』『黒の駐車場』『眠狂四郎殺法帖』『眠狂四郎勝負』『十七歳の狼』『眠狂四郎円月斬り』

他に、未映画化の時代劇が二本、目下執筆中で映画化の全くあてのないオリジナル・シナリオ(現代劇)が一本、という次第である。

 ごらんの通り、大半が娯楽時代劇で、しかも何と雑多な題材であることか。まるで、ごった煮のごとく、おまえの作家としての主体性はいったいどこにあるのかと問われたら、今の段階ではどんなものにも手を出してみるまでだと答える他はない。そして、事実、その通りの考え方をしている。

 曰く、幕末もの、戦国もの、股旅もの、剣豪もの、等々。ただ、それら娯楽時代劇の主人公たちに、いかにして人間らしい息吹きを導入するか、ぼくの唯一の使命はそこにあったと思う。ひたすらに現代の呼吸を忘れまい。それら髷をつけて剣をふるう男たちと、現代の若者たちとのあいだの、どこに橋をかけるか それが根源的な発想の主流であった。

 初心忘るべからず。時代劇に慣れることのおそろしさを、今、ぼくは感じている。


 『新選組始末記』は、掲載した雑誌にも書いたように、不意に時代劇を頼まれて、それも諸先輩が遠い過去から書きつくしてしまった感のある「新選組」に、どうかして新しい照明地点を探りたい。そのことに苦しんだ末に、山崎烝という実在の人物を、勝手に創りかえて主人公とした。目的意識を喪失した現代青年の復権というテーマを時代劇の中にもちこんだらどうなるか。そこが、おそるおそる時代劇に踏みだす地点の第一歩であった。

 二作目の『第三の影武者』は、乱世に迫害された極貧の土兵が、武将の世界に迷いこんで辿る異常な状況の中に、生きる力を阻害され、自滅していく若者の悲劇だし、「座頭市」という盲目の異様な人物には、絶えず思考を優先する行動的ヴァイタリティがあって、これはむしろ書きやすかった。

 問題は、眠狂四郎なる人物である。この柴田錬三郎氏の創造した実在性の全くないスーパーマンの処置には、窮した。やっと時代劇二年生になったばかりのぼくの技法の及ぶところではない。こんなやつを料理するには、手慣れた包丁が必要なのだろう。しかし、ぼくは、そんなやつにも見さかいなく喰らいついた。時代劇のパターンの中でしか生存しえないような人物を、どうしたら、どこかで現代を呼吸する人物像として蘇生し得るか。

 原作を読んで、驚嘆した。柴田錬三郎氏の途方もない手腕に驚嘆したのである。だいたい眠狂四郎などという名前を案出するだけでも、凡手のなすところではない。その珍奇な思いつきのアラベスク。しかしながら、それは読物としての価値であって、映画とは無縁の存在である。

 それまでに、『第三の影武者』を除けば全部、原作にストーリーはなく、単なる資料にすぎなかった。ぼくの場合、その方がラクなので、眠狂四郎も同じ方法でやればよい。お話はこちらで勝手に創りますよ、それでなければこの仕事は辞退いたします。企画責任者を通じて原作者におたずねしたら、それでよろしいとの返事。じつは、この仕事に自信がなかった、全然。困った困ったを連発して、企画者をたいへん不安がらせた。

 眠狂四郎という人物は、ニヒルの剣豪ということになっている。やたらと強い。たいへんな気どりやで、キザが売り物である。ニヒルを気どるなど、およそ厭ったらしい。どうも好きになれない。それでも、市川雷蔵の新しいシリーズの人物像として、是が非でも観客の心を捉えねばならない。そうは思っても、明確にその方寸が図れなかった。そういう状態で約束の期限がジリジリと近づいてくる。えらい仕事を引受けたと悔んでみたものの事はもう遅い。えいッ、サム・スペードや、フリップ・マーロウのような、ハードボイルド探偵のつもりで書いてやれと思いきって、第一作を書き上げた。

 そして、映像化されたときの計算を忘れて、失敗した。