第二作の眠狂四郎のときも、人物設定をめぐって、だいぶゴタゴタしたが、結果としては前作よりは狙いも定まり、完成された作品も好評で、ホッと一息ついた。この号に掲載した第三作『円月斬り』のあと、大映はシリーズとして今後もつづけるつもりらしいが、どこまで書きつづけられるか、ぼくにはさっぱり自信がない。先輩依田義賢氏が「悪名シリーズ」を七作も八作も書いたときかされて、気が遠くなる想いである。さぞかし、たいへんな苦労であったであろう。日活が以前にやっていた「渡り鳥シリーズ」とは根本的に構造の異なる仕事なのだ。ほとんど仕事のすべてを「悪名」に限定されたことの嘆きを、文章で読んだことがあるけれど、全く同感できる。ぼくが今、娯楽時代劇に一年のほとんどを費やされることの嘆きが、それであるから。

 だが、同時に、敢えてぼくは「やってやれ」という気でいる。今のところ、娯楽時代劇は、ぼくにとって愉しい仕事とはなっていないが、これはその」進歩のために、誰かがやらなければならないのだ。だから今は、ぼくがやる、やれるところまで。

 それにしても、さらば眠狂四郎くんよ、健在なれ。

 そう言うお別れができたら、ぼくはどこかの酒場の片隅で、独りひっそりとグラスを傾けよう。


 時代劇の仕事をやってみて、ぼくはぼくなりに、マイナスになっていない筈だとおもう。今のうちは、どんな仕事でもやっておこう。現代劇でも書きたい材料がたくさんあるし、時代劇をやって史実をしらべているうちに、これは書いてやろう、いつかは、これもと考える素材は無限にひろがっていく。

 だから、ぼくは時代劇を書く。ぼく自身の目標は、遠い過去から現在につながって、その現在をより明確化できる過去の人間の歴史を描くことにある。今の仕事は、そのための技法の獲得であり、すべてはその布石にすぎない。

 しかし、一方では、その前に書きたい現代のドラマは、もっと多い。

 幻想と焦燥、日を重ねるにつれ、気ばかりあせっていく昨今のぼくである。


 現在の映画界全体の課題として、というよりも、映画そのものの永久の課題として、いわゆる「商売になった映画」が必ずしも俗悪であるとはかぎらないし、むしろ映画作家が問題意識にばかりとらわれて、ポーズに凝る余り、自分が創ろうとしている作品の本質的な錯誤におちいることこそ、恥としなければならない。この単純な思考がいかに歪められているか。最近、とくに、ぼくたち同じ年代の作家にその例が多い。

 娯楽と芸術、芸術家と職人、孤高と大衆、この問題は、いつでも、どこでも論じられている。そのくせ、決してどちらにも徹しようとしない一連のポーズ屋が多くなって来たことにこそ、企業の実体よりも、その事実において、ぼくは決定的な映画の危機を感じる。

 自己の生活は大衆と断絶しているくせに、大衆を蔑視している彼ら、自家用車を乗りまわし、バスや電車に乗って歩く人々を意識の底で軽蔑し、銀座のクラブで高価な酒をくらい、口をひらけば現代の連帯意識の喪失だの、愛の不在だのを得意然と論じ、おのれがみずから芸術家と称えて、強烈な特権意識のカラに固くとじこもるという重大な錯誤を犯しながら、一切それに視線を向けようとしない一群の映画作家がある。彼らのつくった作品が意味不明なのは、当然である。その意味不明な点を問われて、彼らが突然、プルトンのシュールレアリズム宣言をもちだしたのをきいて、ぼくは失笑した記憶がある。

 ぼくたちは、ここで、娯楽ということばをするどく解釈して、仕事に関しては徹底する必要に迫られている。特殊な映画観客だけを対象とする作品は、もちろん充分な存在理由をもっているし、一方、数多くの観客を動員できる娯楽作品も同様の価値を有している。ただ、どちらつかずの、どちらにも徹底できない作品には、ぼく個人として多分の疑惑を所有する。フェリーニやアントニオーニを、ぼくは尊敬するかたわら、ジョン・フォードや、ヒッチッコックたちにもかぎりない愛情と尊敬を寄せている。つまるところ、映画は娯しく、それが悲劇であれ、喜劇であれ、その作品の本質に徹すべきである。娯楽作品のかげで、こそこそと野心的ポーズをひけらかし、会社をペテンにかけ、観客に失望を与え、一部分の批評家の褒め言葉に酔い、自己満足にふけるのは余りにかなしい独善ではないか。

 ぼくは近ごろ痛感している。どうしても、その仕事に不満があるときは、制作を拒否すべきであると。制作中もおよび制作後の泣き言は宥されまい。

 このことは、ぼくが、ぼく自身に言いきかす言葉である。


 グチはよそう。

 みずからの仕事で困難が生じたとき、他人を責めまい。ダメになったら、他人がかえりみはしないのだ。その孤独を愛そう。謙虚、純粋、巨きな野心。

 そして、生き残ることこそ現代の倫理であろう。

「シナリオ」64年5月号