花柳武始(はなやぎたけし)

1926年10月28日/大阪府

本名:増山健吉 初名:青山健吉 法政大学予科中退。日本映画学校卒業後、東宝・東横映画に出演。51年父・花柳章太郎に入門、青山健吉の名で新派の初舞台を踏み、52年「息子の青春」など青春シリーズに出演。

53年花柳武始と改名。一時東宝演劇部や松竹新喜劇などに所属するが、71年新派に復帰する。

2003年7月27日午前10時38分、直腸がんのため東京都新宿区の病院で死去、76歳。

1954.08.25 花の白虎隊
1954.10.20 千姫

花柳武始さんをしのぶ 

 新派の花柳武始さんお別れの会が東京であった。亡くなったのは七月二十七日。七十六歳と知って驚いた。もっと若いと思っていたし、事実、その言動は若かった。

 楽屋でしばしば話し込んだのは武始さんが、いたって気さくだったこともある。正直な人でもあった。

 「うわあ、わざわざ訪ねてくれてありがとう。でも今の役、悩んでいるんだ。要するに、ぼくは器用じゃないの」−そんな話を真顔でする。お父さんの花柳章太郎さんに、こっぴどく殴られた話なども聞いたが、これが奇妙に明るかった。

 お別れの会では新派のほとんど全員が立礼していた。松竹の永山武臣会長、ご遺族、水谷八重子、波乃久里子、安井昌二さんらに続いて並んでいる座員を見ると新派にもずいぶん大勢の役者がいることに気づく。ついでながら武始さんは俳優より役者と呼ばれるのを好んだ。

 冒頭の永山会長のスピーチは「最後に私が見たのは『婦系図(おんなけいず)』の、めの惣(そう)だったけど、これは下手でした。でも、どういうものか武始さんと、このまま別れるのは納得できなくてこんな会を持ちました」。八重子さんは「武始兄ちゃんが亡くなって劇団の重みを知りました」と話す。

 文学座の北村和夫さんや加藤武さんの思い出話も素晴らしいものだった。

 「若いころ、武始さんと楽屋が一緒だったことがありまして、いつも“ちきしょう、テメエがやってみろ”って泣き顔でつぶやいていました。お父さんの章太郎さんに毎日、ひどくしかられていたんです。見るに見かねて“そんなこと言うもんじゃないよ”って言ったんですが、考えたら私も杉村春子にしかられっぱなしで“ちきしょう”と思っていました」と北村さん。武始さんの人柄を思わせる和やかな、しのぶ会になった。

 一方ではあらためて新派の花柳章太郎という存在の大きさを知らされた。お兄さんの花柳喜章さんが亡くなって四半世紀。ついに新派から花柳の名は消えてしまった。 (中日新聞/2003年9月8日 編集委員・黒川 光弘)