衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ)

1896年1月1日/三重県亀山市本町

本名・小亀貞之助。生家は煙草業。小亀定助の四男で、すぐ下の弟・寿三は映画監督になった衣笠十四三。母が歌舞伎、新派などが大好きで幼少の頃から芝居に魅せられ、小学校から私塾の笹山塾を出た頃から俳優になる決心をする。だが家族に反対され18歳で家出し、大垣駅で見掛けた地方回り劇団のポスターを見て行ったその場で舞台に立たされる。14年、藤田芳美一座に加わり苦労を重ね、京都の静間小次郎一座、井上上春之輔の芸名で女形として売り出す。大阪・角座に出演中をスカウトされ、日活向島撮影所の専属俳優になり、衣笠貞之助の芸名で「七色指環」(18年)でデビュー。5年間に女形で130本に出演。トルストイの翻案物「生ける屍」をはじめ「金色夜叉」「不如帰」「己が罪」などがある。

映画界が女優を起用しだしてから女形からの転業を考え、機関士が自分の運転する汽車で妹を轢いてしまう悲劇「妹の死」(20年)で監督になる。「噫小西巡査」(22年)は内田吐夢と共同監督。3作目の「火華」は俳優をしていた吐夢と共演。「そこで絞ってちょうだいな」と指示し演出したエピソードが残っており最後の出演作。マキノ映画「金色夜叉」を京都で撮影中、関東大震災が起こる。「恋」(24年)はシュニッラーの『輪舞』の翻案だが風紀問題になり、労働問題をテーマにした「寂しき村」(24年)とともに一部地区で上映禁止になる。森鷗外の『高瀬舟』から「桐の雨」(24年)を監督。阪東妻三郎主演「恋と武士」(25年)、新国劇の沢田正二郎主演「月形半平太」(25年)が大ヒット。直木三十五のプロデュースで市川猿之助の青春座のため2本撮るが、横光利一原作「日輪」(25年)は邪馬台国の卑弥呼は神功皇后という説があり、右翼が皇室を冒涜すると騒ぎカットされた。もう一本は「天一坊と伊賀之亮」(25年)。

26年、横光、川端康成ら新感覚派作家との出会いによって日本最初のアバンギャルド映画の秀作「狂った一頁」が、衣笠映画連盟という独立プロで誕生する。妻が精神病院に入院した原因は自分にあると責任を感じ、病院の用務員になった男と、その娘の結婚が破談になる話だが、患者の幻想などのフラッシュ・バックと、二重焼きやイメージのモンタージュの大胆な手法は表現主義の影響が強い。のちの71年、偶然、衣笠家の蔵からフィルムが発見され、半世紀を経て岩波ホールで上映された。興行は赤字になり当時で1万3000円の欠損を出し、松竹の請負作「照る日曇る日」(26年)などを作り、新人・林長二郎の売出しを任される。「お嬢吉三」(27年)など長二郎と11本撮り、「海国記」(28年)は漁民一揆を扱い力作だが、純粋映画への情熱は「十字路」(28年)へ発展。江戸裏長屋で傷害事件を起し盲目になった弟と姉がたどる人生の岐路を、表現主義のスタイルで描き、完成した作品を持ってロシア経由で渡欧。日本映画最初の国際進出作で高い評価を得て、セルゲイ・エイゼンシュタテインとも会う。プリントがロンドンに存在していたため岩波ホールで見られた。

帰国し松竹と再契約の「黎明以前」(31年)では、由井正雪事件にからむ権力への抵抗を、外遊で学んだモンタージュ論を取り入れて展開。トーキー大作「忠臣蔵」(32年)を大ヒットさせ、浅野匠頭と浪人の二役をやった長二郎と、「鯉名の銀平」(33年)、「一本刀土俵入り」(34年)、情緒あふれる心中物「二つ灯籠」(33年)、そして「雪之丞変化」(35年)で彼の魅力を最高に引き出し、松竹創設以来最高の数10万円という配収をもたらす。1年がかりで大作「大阪夏の陣」(37年)を撮影。前半は豊臣と徳川武将の1戦略と攻防戦を、後半で落城寸前の山田五十鈴の千姫を猛火から救う長二郎の坂崎出羽守、東山千栄子の淀君など悲劇のドラマを見せ俳優座が出演。千田是也とは舞台と映画をジョイントさせたキノドラマ『嗤う手紙』(37年)を上映し、実験精神を発揮。37年長二郎は15万円の契約金で東宝へ移籍するが、暴漢に顔を斬られる事件が起こる。長谷川一夫と改名した彼と「蛇姫様」(40年)、「川中島合戦」(41年)で組んだ。後者は猿之助が謙信、大河内傳次郎が信玄を演じた大作で、長谷川の百蔵と五十鈴のお篠の物語のウエイトが大きい。戦争中は2本しかなく、「進め独立旗」(43年)は独立をめざすインドの王子とイギリスのスパイ、日本の志士がからむ国策色の強いスペクタクル。「間諜海の薔薇」(45年)は上海から神戸に潜入した女スパイの話だった。

戦後第1作「或る夜の殿様」(46年)は、明治初期の箱根の旅館を舞台に、鉄道設置の申請で一儲けたくらむ欲にかられた人間喜劇を、オール・スターで華美に展開しキネマ旬報ベスト・テン第3位。溝口健二=田中絹代の松竹と競作になった松井須磨子伝「女優」(47年)は、島村抱月との恋を通して女性の自我の確立に焦点をしぼり、映画草創期の大女優を山田五十鈴が熱演。評価はこちらのほうが高かった。47年、長谷川一夫、山田五十鈴の新演伎座の顧問になり、「雪之丞変化」のバリエーション「小判鮫」(48年)を監督するが、東宝争議も絡んで赤字がかさみ、「鳴門秘帖」のバリエーション「甲賀屋敷」(49年)を大映提携でヒットさせ、50年、長谷川一夫とともに大映専属になる。「紅蝙蝠」(50年)は年間興収ベスト・テン5位、「月の渡り鳥」、「名月走馬燈」(51年)、山手樹一郎『桃太郎侍』からの「修羅城秘聞」(52年)とコンビで大ヒット作を連打。「大仏開眼」(52年)も興収6位で天正17年遷都を機会に奈良の大仏建造にあたる長谷川演じた彫刻師をめぐる抗争と、工事の苦難をスペクタクル大作に仕立てる。

「地獄門」(53年)はイーストマン・カラーの華麗な色彩美でカンヌ映画祭グランプリに輝き、アカデミー外国語映画賞、和田三造が衣裳デザイン賞を受賞。反清盛派から上皇を守るため身代わりにされた袈裟の美しさに惹かれた護衛役の盛遠と、彼女の夫との確執が悲劇を呼ぶ王朝絵巻。溝口健二とともに大映重役になり、興収7位の「月形半平太」(56年)などで商業監督のベテランぶりを発揮。ミス日本から映画界入りした山本富士子との出会いは、戦前の長谷川一夫の時のような運命的なものを感じると言っているが、女形だった自分のもう一つの情熱と芸の完成を託して、典型的な明治型美女・富士子の魅力を生かした情緒ある作品をコンビで作る。特に泉鏡花の世界は「湯島の白梅」(55年)、カンヌ映画祭特別表彰を受け日本より海外で評価されている料亭の娘お篠の悲恋「白鷺」(58年)、「歌行燈」(60年)、「みだれ髪」(61年)と続き、「源氏物語・浮舟」(57年)、『明治一代女』のお梅を演じた「情炎」(59年)、「お琴と佐助」(61年)などで美しさを磨きあげる。山本は63年に五社協定で映画界から干される事件が起こり、同時に衣笠も方向を失った。66年の大映と旧ソ連のゴーリキー撮影所合作「小さい逃亡者」は、生き別れの父を尋ねてソ連に密航した少年が、バイオリニストになり管弦楽団とともに日本にやってくる。衣笠の題材ではないがモスクワ映画児童映画部門金賞を受賞し、70歳だった彼の最後の映画になった。晩年は東宝歌舞伎『鯉名の銀平』『或る夜の殿様』『沓掛時次郎』(73年)を演出。「十字路」など戦前の作品で主役をつとめた千早晶子と結婚。82年2月26日死去。

1955.04.24 薔薇いくたびか
1956.10.17 月形半平太
1957.04.30 源氏物語・浮舟
1957.09.29 鳴門秘帖
1959.09.27 かげろう絵図
1960.05.18 歌行燈
1963.10.05 妖僧

脚本

1955.03.25 次男坊判官
1956.07.25 花頭巾
1960.10.18 大菩薩峠
1960.12.27 大菩薩峠・竜神の巻
1961.05.17 大菩薩峠・完結篇

共同脚本/犬塚稔

1955.11.01 いろは囃子
1956.10.17 月形半平太
1957.09.21 稲妻街道
1957.09.29 鳴門秘帖
1959.09.27 かげろう絵図

共同脚本/相良準

1955.04.24 薔薇いくたびか
1960.05.18 歌行燈
1963.10.05 妖僧

共同脚本/伊藤大輔

1963.01.13 雪之丞変化