斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう)

1905130/秋田県由利郡 

四人兄弟は上から寅太郎、寅二郎、寅三郎、寅四郎という。上京して明治薬学校に入学したが、中退して製薬会社宣伝部の活動写真巡業隊をつとめ、22年春、松竹蒲田撮影所に入る。大久保忠素の助監督となり、1年遅れて小津安二郎がおとうと弟子として入っている。25年に監督となり、最初は時代劇を作っていたが、そのころから奇想天外な筋の時代物だった。やがてエロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる時代が来て、日本製の喜劇が多くなり、蒲田では若い監督に短篇のファースやスラップスティック映画を作らせたが、斎藤はそれに応じて、全く他に類のない発想とギャグの連発で次々と喜劇を作り出した。中でも「熊野八つ切事件」(32)と「この子捨てざれば」(35)の2本は、どちらも日本映画史に残る喜劇の傑作である。前者のシナリオは伏見。老人七兵衛(坂本武)は死を前にして病床に息子三人を集め、3本の矢を渡す。1本ずつ折らせ、3本を束にすれないことを実証する。しかし遅れてかけつけた道楽者の長男(小倉繁)は父の遺産が入手できると聞いて喜んだ途端、馬鹿力が出て3本を折ってしまう。日本の古い教訓が型なしになったギャグだ。その後も鐘が小川を浮いて流れたり、凄いギャグの連発である。後者は柳井隆雄のシナリオ。貧乏な傘屋の職人が食うに困って我子を捨てに行くと、先に捨子が置いてあり、止むなく拾って帰る。何度もこれが重なって家の中は子供で一杯になる。折から日本は不況のドン底だったので、これは鋭い風刺になった。 

斎藤はこんな喜劇を次々と作りつづけたが、37年、東宝に移ってエノケン等の有名なコメディアンを主役に長篇を作りはじめると、独自のギャグが減少し、反対に喜劇の中にもどこかセンチメンタルな泣き所を入れるという日本喜劇の悪い伝統が彼の映画にも入りこんで、以前のすばらしいギャグと発想が弱くなったのは、まことに惜しいことであった。彼の特異な才能はもう一度開花させたかったが、それにしてもこの人はわが国最良の喜劇作者だった。8251日死去。

1956.08.22 弥次喜多道中