増村 保造(ますむら やすぞう)

1924年8月25日/山梨県甲府市錦町

生家は時計屋で長男。姉一人、妹二人、弟一人がいた。子供の頃の遊び友達に映画館の子がいて映画はよく見た。伊藤大輔の「薩摩飛脚」が記憶に残っていたという。甲府中学から旧制第一高等学校、東京大学法学部と秀才コースを歩み、フランス映画をよく見ており、戦争中は「無法松の一生」を3度、「姿三四郎」を4度など好きな作品を何度もみる習慣があった。47年、戦後の混乱の最中にアルバイトのつもりで受けた大映の助監督募集に合格するが、東京大学文学部哲学科に再入学し、学業と仕事を両立させて51年に卒業。52年にローマの映画実験センター(チェントロ)に送った論文が合格し留学。古い映画を系統的に見せられ、ディスカッションを重ね、各国の映画書にふれてイタリア語による『日本映画史』を書く。55年に帰国し溝口健二の「楊貴妃」と遺作「赤線地帯」や、市川崑らの助監督をつとめ、57年「くちづけ」で監督デビュー。公金使い込みで刑務所にいる父の保釈金に苦労する娘が出会った青年との恋を。新鮮な演出で見せ、中平康とともにニュー・ウエーブの新鋭と脚光を浴びる。2作目の「青空娘」(57年)は家庭の事情で祖母に育てられた娘が両親のもとに戻るが、女中扱いされながら明るく生きる。若尾文子と最初のコンビで爽快なテンポと早いセリフ回しがユニークだった。「暖流」(57年)は吉村公三郎の名作のリメイクで、左幸子の看護婦が東京駅で「二号でも妾でもいいわ。だから待ってるわ」と叫ぶシーンが有名。吉村作品に対する増村の自己主張を明白に出し、日本的な情緒と曖昧性を拒否する作風を確立した。文壇では開高健、大江健三郎がそろって登場したころで、戦後が大きな転換期を迎えていた。

開高原作「巨人と玩具」(58年)は製薬会社がマスコミ宣伝で一人の少女をアイドルに仕上げていく過程を戯画化し、社会機構に鋭く切り込んだ当時の日本映画としては画期的な作品。大江原作「偽大学生」(60年)では学生運動の組織に潜入したスパイ容疑の偽学生がリンチを受け、運動の内部崩壊を鋭く見据えた。“組織と個人”のテーマはこの頃、盛んに論議され、伊藤整原作「氾濫」(59年)でも、新製品開発で重役に出世した一家の虚飾と家庭崩壊を日本的社会機構の中に据える。経済成長期に入った日本では産業スパイなど社会機構も一段と複雑化してくるが、自動車メーカーの熾烈な戦いを描いた「黒の試走車」(62年)をきっかけに、新幹線建設を巡る政界ボスの陰謀「黒の超特急」(64年)でシリーズの先鞭を付け、快調なテンポで社会派エンタテインメントともいうべき世界を開拓する。「闇を横切れ」(59年)も選挙汚職を追う新聞記者の社会派サスペンスだ。さらに、軍隊という組織悪に豪快なアクションで捨て身の抵抗をした勝新太郎の「兵隊やくざ」(65年)、戦前のスパイ養成学校のエリートが恋人も殺し国家組織の非情なロボットになっていく市川雷蔵の「陸軍中野学校」(66年)は、どちらもシリーズになるヒット作。若尾文子を女優開眼させ、戦争を女の肉体を通して描いた「清作の妻」(65年)は戦争にやりたくない夫の目を突き刺す妻の強い意志を「赤い天使」(66年)は陸軍病院の看護婦とモルヒネ中毒の軍医の狂おしい愛を描く。「妻は告白する」(61年)は、冬山遭難死のザイルを切った妻が事故か殺人か裁かれる話だが、情念に狂った不倫妻を鬼気迫る迫力で見せた。「夫が見た」(64年)は殺人に至る愛欲、レスビアンがテーマの「卍」(64年)と「刺青」(66年)で谷崎潤一郎の耽美の世界を追及する。そして、文芸もの「華岡清洲の妻」(67年)、「千羽鶴」(69年)まで若尾とのコンビは続いた。

「痴人の愛」(67年)は安田道代がナオミを演じるが、彼女とはスポーツ界のセックス・チェックをテーマに「第二の性」(68年)を撮る。緑魔子のエロティシズムは、男に利用された少女がしたたかな女に生まれ変わる「大悪党」(68年)と、江戸川乱歩原作「盲獣」(69年)で掘り起こされ、浅丘ルリ子の「女体」(69年)ではラーメン屋で働く貧しい娘が、肉体を元手にエネルギッシュに生きるが自滅していく姿を追う。渥美マリの「でんきくらげ」「しびれくらげ」(70年)では肉体を通して自立していく女を描いた。大映での最後の映画になる「遊び」(71年)は16歳だった関根恵子(のちの高橋惠子)のデビュー作。町工場の貧しい女工の現状を突き破っていこうとする活力は、晩年の傑作「大地の子守歌」(76年)の原田美枝子演じる、売春婦に売られ闘争的なヴァイタリティで生き抜くおりんに発展していく。「曽根崎心中」(78年)では町人の意地のなかに彼のテーマだった自我の確立を徹底的に追及し、「発狂状態になるまで追い込む」とまでいわれた演技指導で梶芽衣子も女優開眼する。「やくざ絶唱」(70年)と、三島由紀夫原作「音楽」(72年)では近親相姦をテーマにして深層心理の世界にも切り込んだ。三島とは東大法学部の同期生だったが交遊はなく、出会いは60年に彼の主演作「からっ風野郎」を監督したときで、やくざを演じた著名作家を徹底的にしごいた演出は語り草になっている。また、70年代後半は大映テレビを中心にテレビ・ドラマの演出も多く手掛け、なかでも74年の『赤い迷路』に始まる、一連の『赤い』シリーズはその代表作といえよう。そして、イタリアのスタッフ・キャストによる日=伊合作のラヴ・ストーリー「エデンの園」(80年)を手掛けたのち、角川映画のサスペンス「この子七つのお祝いに」(82年)が遺作になった。スタイリストの中平康とは対照的で服装には無頓着。寿美子夫人は眼科医として有名。86年11月23日、脳出血のため死去。享年62歳。戒名:影光院演応保真居士。

1961.03.21 好色一代男
1966.06.01 陸軍中野学校
1967.10.28 華岡清洲の妻

共同脚本/石松愛弘

1967.04.29 ある殺し屋

共同脚本/小滝光郎

1967.12.02 ある殺し屋の鍵