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広がったフレーム 『炎上』

 宮川は今までに三十人以上の監督と仕事をしているが「いずれおとらぬ難物ぞろいだった」と回想する。1958年新しい“難物”から“やってくれないか”という話がきた。市川崑である。市川崑は1915年11月20日三重で生まれた。十八歳の時、京都JOに入り、漫画映画をやったのが映画歴の始めだから、宮川と同じ京都で仕事をしていたことになる。JOは合併して、1936年に東宝京都撮影所になり、市川助監督へ転進する。この後東宝東京撮影所に移籍して、1945年にマリオネット映画『娘道成寺』を作ったが、占領軍の検閲を受けていなかったということで封切ることが出来なかった。

 東宝大争議後に、新東宝で助監督の身分のまま『東宝千一夜』(1947)を演出、1948年監督に昇進し、野上弥生子原作の『花ひらく』でデビューした。この時の撮影監督は名手小原譲治であった。その後『三百六十五夜』『ブンガワンソロ』『プーサン』などを撮り『こころ』以後、文学作品の映画化に執着する。

 1958年、大映で三島由紀夫の「金閣寺」を映画化する。これが映画『炎上』である。市川は“京都で仕事をするなら宮川さんとやりたい”と大映に申入れ、宮川との仕事が実現することになった。

 監督の中には、宮川が芝居などに口を出すといやな顔をする人もいたが、市川はどんなことでも宮川の意見を聞き入れ、むしろ歓迎するところがあった。画調やコンポジションでも、自分のねらいをはっきりいい、オーソドックスな画から一ひねりも二ひねりもした画を作ることを要求した。画を作るために必要な時間をかけることは苦にしないで、宮川がライティングに凝っているなと思うと、チェーン・スモーカーの市川は「ゆっくり煙草すってくるわ」といって待っていてくれた。宮川は自分が撮っているセットでは、煙でもやるのを嫌って“煙草はだめ”といっていたので、市川は遠慮していたのである。

 二人のコンビは『炎上』以後、『鍵』(1959)『ぼんち』(1960)『おとうと』(1960)『破戒』(1962)『ど根性物語 銭の踊り』(1964)『東京オリンピック』(1965)と七本続くが、いずれもスコープ・サイズの作品である。

 スタンダード版の縦横比は1:1.33であるが、スコープは1:2.35である。いままでの映画に比べて、横に倍近くフレームが広がったのである。二倍フレームが広がると表現力も二倍になるというわけにはいかない。画面の集中力が損なわれることも出てくる。

 宮川にとっては子供向け映画『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』(森一生監督)が初めてのシネスコ体験で、ちょうどそれが撮り終ったばかりである。

 市川から、原作は三島由紀夫の「金閣寺」だという話を聞いて、さっそく「金閣寺」を読んでみたのだが、画にするのは大変難しい話だと思った。

 脚本は長谷部慶次と和田夏十が書いたが、基本的な方針を決めるときは市川崑も加わり「三ヵ月ばかりのあいだで悩んだ末」(岩波ホール刊 「映画で見る日本文学史」)に、溝口吾市という青年の生活と親子関係を見ていこうという結論になった。

 市川崑は、初めて「金閣寺」を読んだときは「ちょっと手に負えないと思いました」といっていたが、この基本方針が映画『炎上』を成功させた。いざやろうということになると、金閣寺は寺名を映画の題名に使うことを禁じたので、“驟閣”という名前にしたり、スターだった主演の市川雷蔵を、殺人犯にしないでくれという営業部からの要望が出て、一時製作が延期されたりした。