時代劇に颯爽の剣をふるい、人気沸騰の雷蔵さんが現代劇に初出演し、作られた魅力から生地の魅力へと脱皮しようとしている作品です。

09/25/58

 『炎上』によせて

  三島氏が何時ぞや「自分の小説の映画化はむずかしいのじゃないかな」といっておりました。異色作家の彼が示そうとする主人公に、出演者が力量の総てを投出しての演技も、尚大衆がどの程度まで受入れるか、という事を指しての事でしょう。その点、『炎上』はシナリオで幾多の変型に依り、映画『炎上』となったわけで、異例の抜擢を受けて立った雷さんの演技に思わず目を見張った次第です。

 配役とは不思議ものですねぇ、まるで溝口青年が雷さんに以前から約束されて居た様に、生々とクローズアップされ、とにも角にも私達の懸念した現代劇初出演に、飛躍の一点を残して、万人に真価を示したといえましょう。只、溝口という青年は不具者だけれど、決して精神の異常は無かった筈、不具者だから周囲からさげすまれ、裏切られ、だんだんと人嫌いになって行くのですから、劣等感と反抗心、それに驟閣への愛着等心理的な表情の動きにもう少し掘り下げた深さがほしい様に思いました。

 線路端に足だけ見せて横たわった死体へ凸凹の道を激しく揺れながら近づいて来る自動車を見て、原作の「生きようと私は思った」というラストとくらべ、純粋過ぎた主人公の一生に云い様もないはかなさを感じました。(かじ井)

 『炎上』を見て思いのまま

 待ちに待った十九日、初出演『炎上』の封切を祝福しながら浅草に向った。丁度第一回目の『炎上』が始まった。見良い席にかけて、じっと食い入って見つめた。先ず、最初にお寺を尋ねて来た雷蔵の年令にふさわしい格好と顔付きを巧いと思った。大力作『炎上』では、最初から終る迄年令の顔付きと格好が、秀逸だと云えると私は思う。唯、私は『炎上』が作られる前から金閣寺の姿だけでも、カラーフィルムにしてもらえたらと願っていた。純心な気持ちで美しい姿を憧憬している吾市の胸中を、演技で十二分に表現しようと努力している雷様を早く分かり易く、観客にうなずかせるには、あの一幅の名画にも似た池の向こうに静かに建つ金色燦然たる色彩を見せてほしかったのである。

 さて、私は率直に云うならば俳優としての雷様に五分、人間雷様に五分の、合わせて一貫した心理のファンである。これは私の生命の続く限り変わらないものである。『炎上』の演技を冷静に批判したいと願っていた私は、人間雷様、ファンの五分の心理がスクリーンの雷様の姿をひいき目に見てるので、演技を直す眼がくもるのには弱った。それをはっきりしたいと考えているうちに夕夜は頭がさえて眠れず、初出演の演技はどの程度だったろうかと、自分なりに正しい点数をつけるのに、明け方四時半頃迄一睡もしなかった。

 『炎上』映写中、私の後方のボックスの二十才位の青年が、「うまいなぁ」と声をもらした。それは吾市が、検事と一緒に消失現場に立って無残な焼残りをさらしている姿に、改めて愕然とした顔、そして在りし日の金閣の美しさを想い、我にかえって無意味な骸骨が亦も目を射た時、青年に満たない青年吾市の心情にはあまりにもむごく、思わず目をとじるその時の、全く吾市に成り切った雷様の演技に放たれたものであった。男が男の演技に感動のあまり「うまいなあ」ともらした言葉をきいたのは、 今回で三度目である。それぞれの場面は違うが、前二回は森繁久弥さんのものであった。「うまいなあ」と、もらされた言葉こそ「演技者雷蔵」といっても過言ではないと、私には思えるのです。昨日の感激の未だ冷めぬままつたない文を一筆よせました。 (石崎澄子)

雑感

  雷蔵さん主演ときまった『炎上』、封切まで何と永く永く待ったことでしょう。今迄にこんな気持で封切を待った映画はありません。あの学校時代の通信簿をいただく時の多少の不安と又期待とを心に感じ家を出ました。ワイドスクリーン一杯の雷蔵さんの学生姿、映画が進むにつれて不安な気持ちがすっとんでしまいい、雷蔵さんは立派にこの役にのりきっていると思いました。

 貧しさのために孤独に成り、内向的になり、理解されないために絶望感にとらわれた彼、その一齣々々、雷蔵さんにうってつけの役と申しましょうか、他の人だったらとてもこれだけの味は望めなかったのではないでしょうか。どもりにどもって、自分の意志も伝えられない彼溝口、飛び出して行って云いそえてやりたい気持になった私。尊敬していた老師にも裏切られ、池のほとりに立って仰ぎみた驟閣、とめどなく流れる涙、私も演技者雷蔵さんと共に絶望のどん底でした。

 『炎上』という題にふさわしいあの驟閣の燃え上るシーン、金の砂をまいた様に夜空をこがすあの画面だったでしょう。護送中の汽車から飛び降りて、かなしい菰をかぶって横たわった姿が最後、見終って、何とはなしにほっとした気持、あわれさよりも彼はあれでよかったんだと思いました。

 孤独であり内向的であり、国宝まで焼いてしいまった彼ではあったが、その底を流れるものは、何と美しく純心なあまりにも純粋過ぎる心の持主であったのでしょう。この溝口の役を雷蔵さんらしく一つも汚い所がなく、美しく立派にやってのけたと思いました。あの心持ち口のあいたいつもおどおどしている溝口、これ迄の雷蔵さんとはうって変った役、ここ迄におやりになった苦心の程をひしひしと身に感じました。中村鴈治郎さん、北林さん、仲代さん等の好演技者に優るとも劣らない出来栄えだと思います。

 会誌6号にこの作品を飛躍台としたかったと申されておられた通り、正に雷蔵さんは大飛躍なさったと思います。又今後の作品にも大いなる期待を持っております。(瑤子)