ここで、僕たちは、初めて偶像破戒の映画として『新平家物語』(溝口健二)に感動する。この映画の清盛は、神聖犯すべからざる禁忌であった神輿めがけて矢を射かける。驚歎すべき生命力である。彼は、時の権力である公卿を軽蔑し、暴力である僧兵に反抗し、朝廷をすら恐れはしない。白河院の血がもし自分の体内に流れているとしたならば、それを一滴もあまさず絞り出してしまいたいと彼は云う。自己を完全な独立体として自覚しようという合理的な考え方である。こんな近代的な進歩的思想を清盛が実際に持っていたかどうかは疑問である。これはおそらくこの作品の作者たちの清盛観であり、ひいては時代意識の解釈であろう。しかし、僕たちに重要なのは、事実の詮索よりも、作者の歴史観である。映画はついさき頃まで、朝廷の威厳を損なうような事実については全然触れることをしなかった。白河院の情事や、朝臣間の権謀術数を映画にとり入れたのは全く稀有のことである。神聖この上なしと信じこまされていたものが、実は醜いものであったという実体を暴露したのは、確かにこの映画の進歩的精神である。

 しかし、その反面、僕には何だか偶像破壊者である清盛を、また偶像的に描こうとしている気配があるような気がしてならない。例えば、赤鼻伴卜の清盛に対する態度にそれがうかがえる。軍閥の背後に経済的後援者のひかえているのは何時の時代も当然のことだが、そのりえき関係の説明が、この映画では不充分なのである。世に「死の商人」とまで呼ばれるあこぎな財閥が、武士階級と共にどうして勢力を伸ばすかが描かれていたならば、この映画は一層歴史的意義を帯びていたであろう。ところが、ここに現われている限りでは、伴卜は根ッからの清盛傾倒者としか思えない。後に彼が手段として殊更に清盛を英雄視するのなら、また別の意義を生ずるが、最初から無条件に心酔しているようなそぶりに見えるのは、作者の意識せざる清盛偶像視のあらわれでなかろうか。(戸田隆雄 日本映画月評)

 

(時代映画55年11・12月号より)