今年の4月で連載5ヵ年という、週刊誌は勿論、雑誌小説では未曾有の記録を打ち樹て、尚“週刊朝日”に連載、好評を博している吉川英治原作の“新・平家物語”は、大映が誇るイーストマンカラーで映画化されることになったが、その準備は、どのようになされているだろうか、大映企画本部長・松山常務を訪ねて、現況をつまびらかに語ってもらった。

松山常務

 プロローグ

 先ず始りは昭和二十七年に、大映の企画本部長である松山英夫常務が、吉川英治氏宅を訪れて、「新・平家物語」の映画化希望の申し入れをしたことにはじまる。そして、この厖大な作品を、一体どのようにして映画化するのか、それが原作者・吉川英治氏の第一番の心配だった。また、映画化する暁は、当然カラー・システムが採用されなければならないであろう、ということは、あらかじめその時から決められていた。

 然し、現在のように、イーストマン・カラーによる成果に確信の持てなかった当時としては、国産のコニカカラー、フジカラーにするか、またはアグファー・カラーにするか、大いに悩んだと云う。そして折から製作されていた大映十周年記念映画『源氏物語』の一部をアグファー・カラーによりテスト撮影するなど、その準備は極めて慎重に行われていった。

 その頃、松山常務は「私は去る七月、奥多摩吉野村に吉川先生をお訪ねして“新・平家物語”を映画化したい希望を申し入れて、具体案を研究することについての諒解を得たが、これは未だ大映が原作者から映画化権を獲得したのではなく、すべては先生が満足されるプラン、スタッフ等が決定してから、映画化権の諾否が決定されるのである」と、当時いち早くも一部新聞、通信等に流布された、映画化権獲得の説を否定し、更に「然し、私は吉川先生に満足して頂けるだけのプランとスタッフを編成し得る自信を持っているので、あえて五十二年度の超大作の第一作として発表する次第である」と云っているが、これはその年には実現出来なかった。然し、昭和二十八年度に製作した、大映の第一回総天然色時代劇映画である『地獄門』の成功が、“新・平家物語”も、同時代の話であるし、イーストマン・カラーを採用する意向が決定的になった。

 そうこうするうちに、原作の映画化権をめぐって、東映も名乗りを上げ、此処にも烈しい原作争奪戦が繰りひろげられようとしたが、「これは私の手落ちでして、自分が原作に打ち込むのあまり、まさか他社がこの映画化を狙って来るとは思っていなかったので油断してましたが、翌二十九年の夏に、再度、吉川先生を今度は軽井沢の別荘におたずねして、映画化権は大映が独占という、決定的な契約を結ぶことが出来たのでした」と、この原作争いは軽く片付けている。そうして八月二日には永田雅一社長を委員長とする『新・平家物語』製作委員会が設置されることになった。顧問には原作者の吉川英治氏を迎える他、川口松太郎、松山常務、酒井大映京都撮影所長、中泉企画部長、それから杉山種太郎氏、津村秀夫氏、扇谷週刊朝日編集長等が、この委員会のメンバーとなり、いよいよ映画化推進の原動力となったのだった。