今年の4月で連載5ヵ年という、週刊誌は勿論、雑誌小説では未曾有の記録を打ち樹て、尚“週刊朝日”に連載、好評を博している吉川英治原作の“新・平家物語”は、大映が誇るイーストマンカラーで映画化されることになったが、その準備は、どのようになされているだろうか、大映企画本部長・松山常務を訪ねて、現況をつまびらかに語ってもらった。

松山常務

第一部のものがたり

 物語は、わんわん市場で初めて女を知った清盛が、自分には祗園女御という実の母があると云うことを知らされてからの悩みにはじまり、後、次第に登用されて出世をし、安芸守に任じられた頃、叡山の神輿に矢を射込み、当時の朝廷貴族から、庶民にまで頑迷に根を張っていた迷信へ痛烈な一矢をむくいるという、青年時代の清盛が自信に満ちあふれた第一歩を踏み出すところで第一部を終ることになっているというが、現在、溝口監督が推敲を重ねている脚本は見るべくもないので、その間に繰り広げられる物語を、原作によって紹介することにする。

 保延元年、父の平忠盛と共に四国、九州にまたがる内海の徒賊退治に加わった平太清盛は、四月から八月にわたる戦いの末、海賊三十数名を数珠つなぎにして都に帰って来た時の晴れやかな気分を思い出すと、体内の血がむずむずとうずくのを感じるのだが、あれから三年、わずかの恩賞金は、貧乏人の子沢山で、みるみるへってきた上に、今年に入って母、泰子の病気により忽ちのうちに使い果してしまった。そこで「平太、また、すまんがのう、叔父御の処まで行って来てくれい」と父にとっては弟に当る平忠正の所へ、金を借りに行く使いを頼まれた。よれよれの布直垂に垢じみた肌着ひとえ姿といういでたちでは、羅生門の下に住む浮浪者たちでもかほどでもあるまいと思われる程のひどさだが、彼等と見違えられないのは、僅かに平太の腰に太刀がたばさまれているからだった。

 忠正の所から金を借りての帰途、平太の足は自然と俗に云うわんわん横丁、塩小路に向けられていた。此処は、今でいうならマーケットでも云おうか、小鳥の串焼き、下駄売り、干魚等を商う者や、時には“クサ市”と呼ばれる泥棒市も立つ、そしてたそがれ時ともなれば遊び女達が男の袖を引く、これらの世の下積みにひしがれた、あわれな雑草たちの、旺盛な生きぬこうとする雰囲気が平太には、何となく懐かしく、親しめるのだった。

 「おい、伊勢の平太、一杯つき合わぬか」それらの人々の姿に見とれている彼の肩をポンと叩いて呼びかけたのは、勧学院時代の友、遠藤武者盛遠だった。

 六条洞院の遊女宿で、盛遠は平太に、現在スガメ殿と呼ばれるスガ眼の忠盛は、実は本当の父ではなく、恐れ多くも白河上皇こそ平太の父親であると云う、母に当る人は白拍子あがりの祗園女御と呼ばれる女性であるという。愕然と驚いた平太は、夜ふけて帰った今出川の荒邸の厩の裏畑で、郎党の木工助家貞に問いただし、ことの真相を知るのだった。

 即ち、なみなみならぬ御好色であった白河上皇は、六十路に近いお歳でありながら、その頃立烏帽子に白い水干を着、さや巻きの太刀などを差し、朗詠をうたい乍ら男舞を余興することで人気を博していた白拍子のひとりを、世間には中御門の息女とふれて、八坂のほとりに匿われていたのだった。土地がら、人々はその白拍子を祗園女御と呼んだが、この女性のもとに、忠盛を供に連れてしばしば通われたのだった。ところが或る夜、女御の庭に怪しい僧の影を見とがめられた上皇は、なぜかその夜を限りお通いにならず、それどころか、祗園女御を忠盛の妻にと、娶らせた。かくして嫁いでから間もなく、月満たずに生んだのが平太清盛だった、と云うのである。

 木工助と平太の話を物かげで聞いた忠盛の妻泰子は、かねてから自分が藤原氏の出であるにも関わらず、貧乏な武家の忠盛に嫁いだことを身の不幸に思っていたが、この事を機に忠盛に離縁して貰いたいと迫り、遂に承諾させるが、常にその美貌と家柄を自慢に、忠盛を夫とも思わず、平太達子供にも冷たい泰子の態度に、怒り心頭に達した平太は、父の前もはばからず、泰子の頬を強く打つのだった。平太清盛、次男の経盛、三男の教盛等を残した儘、こうして母は彼らのもとを去って行ったのだった。