1931(昭和06)年   0歳 8月29日(土)  
京都市堀川丸太町で亀崎松太郎・富久の間に生まれる。
命名・章雄(あきお)

 

「平凡スタア・グラフ」より

 

1932(昭和07)年

 

 2月

生後6ヶ月で竹内嘉三(市川九団次)養子となり、
竹内嘉男(よしお)と改名。

養父・九団次と

「侍 市川雷蔵その人と芸」より

 

1938(昭和13)年

 6歳

 3月

大阪市天王寺区桃ケ丘小学校入学。

1944(昭和19)年

12歳

 4月

大阪府立天王寺中学校(現・天王寺高校)入学。2年で中退。   

天王寺中学一年生の時に、奈良の恩師を訪問(前列一番右)

「平凡スタア・グラフ」より

1946(昭和21)年

15歳

11月

大阪歌舞伎座・東西合同大歌舞伎「中山七里(娘お花)」で初舞台。11月〜12月。芸名・市川莚蔵。  

思い出深い初舞台「中山七里」娘花

「平凡スタア・グラフ」より

1947(昭和22)年

 

 1月 

大阪歌舞伎座・東西合同大歌舞伎(初世中村鴈治郎十三回追善)「勢獅子(黛)」に出演。  

1949(昭和24)年

17歳

 5月

中村扇雀(現・坂田藤十郎)、実川延二郎(三代目延若、91年没)ら若手歌舞伎役者による勉強会「つくし会」を結成。

 

 

18歳

 9月

京都南座・市川寿海襲名披露「伽羅仙台萩(腰元・八重)」「名月八幡祭り(芸者・おつた)」に出演。

 

 

 

12月

大阪文楽座・武智歌舞伎公演「熊谷陣屋(敦盛)」「野崎村(久松)」に出演。  

1950(昭和25)年

 

 5月

大阪文楽座・武智歌舞伎「道行(求女)」「俊寛(千鳥)」に出演。  

 

19歳

 8月

京都南座・東西花形歌舞伎十一世仁左衛門襲名披露「勧進帳(伊勢三郎)」「修善寺物語(楓)」「道行(求女)」に出演。  

1951(昭和26)年

 

 1月

25年度「幕間」第三回歌舞伎若手俳優人気投票西の部で、「妹背山(求女)」などの好演により一位獲得。  

 

 

 4月30日(月)

松竹社長白井信太郎夫妻の媒酌で三代目市川寿海と養子縁組成立。「つくし会」の勉強出し物「修善寺物語」の審査員をした時、寿海は頼家役の莚蔵(雷蔵)に89点をつけた。このことがあってから間もなく、九団次が「莚蔵の養子縁組み」について尋ねてきた。それまで、「役者は一代限り」と思っていた寿海だったが、勉強会での莚蔵の好演ぶりを考え、養子に迎えることに決定。太田吉哉(きちや)と改名。  

 

 

 6月

八代目市川雷蔵襲名披露。大阪歌舞伎座「白浪五人男・稲勢川勢揃いの場」の赤星十三郎で襲名披露をする。市川宗家で名跡の絶えていた「新蔵」を襲名する予定だったが、市川宗家門下からクレームがついたため「雷蔵」となった。  

市川雷蔵襲名披露口上
「平凡スタア・グラフ」より

 

20歳

10月

名古屋御園座・十一世仁左衛門襲名披露「桐一葉(秀頼)」「双蝶々曲輪日記(おてる)」「御所五郎蔵(新見荒蔵)」「妹背山(侍女・小菊)」に出演。  

 

 

11月 

大阪歌舞伎座「源氏物語(頭の中将その若き頃、侍女右近)」「忠臣蔵(磯貝十郎左衛門)」に出演。  

1952(昭和27)年     1月21日(月) 九団次夫人・養母はな、他界。

故養母(九団次夫人)の告別式、京都五条の自宅で

「平凡スタア・グラフ」より

 

 

26年度「幕間」第四回歌舞伎若手俳優人気投票西の部で、「桐一葉(秀頼)」などの好演により二位獲得。  

「幕間」昭和27年1月号付録“幕間歌舞伎カレンダー”(右の写真をクリックしてみて!!)

1954(昭和28)年

22歳

 3月

大阪歌舞伎座・団十郎祭大歌舞伎開場七周年記念「解脱(娘人丸)」「樽屋おせん(喜三郎)」「土蜘蛛(胡蝶)」に出演。