1954(昭和29)年 

22歳

 6月

大映株式会社と本数契約を結ぶ。雷蔵自身は「別に歌舞伎の世界に不満があったわけではなく、その頃大映京都撮影所所長であった酒井さんのすすめがあって、映画という新しい仕事もしたくて入った」と言っているが、演劇評論家・武智鉄二は、雷蔵が歌舞伎をやめて映画に走った直接の動機は「松竹創立者の大谷竹次郎と大ゲンカをしたことだ。大谷に面と向かって言ったことが激怒を買い“そんな奴はやめてしまえ”と言われ“そんならやめさせてもらいます”と席をけって立ち去った」と語っている。  

 

 

 8月25日(水)

「花の白虎隊」で映画デビュー。  

 

 

23歳

12月

大映株式会社と専属契約を結び、「潮来出島美男剣法」で再スタート。  

1955(昭和30)年

24歳

 9月25日(土)

後援会「可美なり会」発会式。  

 

 

 

12月

養父・市川九団次、他界。

1957(昭和32)年

25歳

 3月

「朱雀門」で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞受賞。

 

 

 6月

後援会「可美なり会」発展的解消。  

 

 

 6月4日(火)

産経ホール・杵屋勝東治「長唄と舞踊の会」に賛助出演。若山富三郎・勝新太郎兄弟と長唄を共演。

 

 

 7月1日(月)

浅草電気館に初出演。殺陣「田村」、唄「バラの刺青」。  

 

 

 

市川雷蔵後援会新発足。  

 

 

 8月3日(土)

明治座・杵屋勝東治「長唄と舞踊の会」に賛助出演。長唄「道成寺」堺俊二、船越英二、宇津井健などと共演。

 

26歳

 9月18日(水)

後援会誌「よ志哉」創刊号発刊。  

 

 

10月13日(日)

市川雷蔵後援会発会式(品川プリンスホテル)。  

1958(昭和33)年

 

 5月4日(日)

第一回「春の集い」開催(千代田公会堂)。舞踊「お祭り」、映画「次男坊鴉」「朱雀門」。「ファンの集い」は昭和四十年の第十四回まで続いた。  

 

 

 8月4日(月) 

NHK「私の秘密」出演。  

 

 

  27日(水)

日本テレビ開局五周年記念企画に出演(読売ホール)。山本富士子と「神田祭り」を踊る。

 

1959(昭和34)年

27歳

 1月30日(金)

キネマ旬報主演男優賞受賞(松竹セントラル劇場)。  

 

 

  2月5日(木) 

ブルーリボン主演男優賞受賞(東京ガスホール)。NHK映画優最秀主演男優賞も受賞。ともに「炎上」「弁天小僧」に対してだが、「炎上」はベニス国際映画祭チネマ・ヌボウ男優演技賞も受賞した。  

 

 

 4月10日(金)

フジテレビで皇太子御成婚祝賀に「鶴亀」を中村玉緒・浦路洋子と踊る。  

 

 

 8月1日(土)

愛知県蒲郡中央劇場杮落しに出演。「鶴亀」を中村玉緒・浦路洋子と踊る。  

中央劇場舞台

「よ志哉」13号より

 

 

28歳

11月17日(火)

「白蝶会舞踊会」出演(新橋演舞場)。「蝶の道行」を川口秀子と踊る。  

1960(昭和35)年

 

11日(金)

ハワイ国際劇場(大映専属)に出演。1日〜3日、「お祭り」を踊る。

The Hawaii Hochiの記事より

 

 

 8月 

大阪新歌舞伎座出演。寿海、淡島千景と共演。「ぼんち(喜久治)」「浮名の渡り鳥(権八)」、舞踊「お祭り」。「浮名の渡り鳥」は、川口松太郎が寿海・雷蔵親子のために書き下ろしたもの。  

 

29歳

12月30日(金)

岐阜市大映満鉄会館の杮落しに出演。「鶴亀」を中村玉緒・浦路洋子と踊る。  

1961(昭和36)年

 

1月3日(火)

寿海夫人で養母の太田らく、他界。  

 

 

4月12日(月) 

フジテレビ「スター千一夜」出演。

 

 

5月12日(金) 

高松市政七十周年記念祝賀会に出演(高松市民会館)。「お祭り」を踊る。  

 

 

  27日(土)

「橋幸夫ショー」出演(産経ホール)。「殺陣」、「白虎隊」を踊る。

 

 

8月27日(日)

橋幸夫後援会発会式に出席(厚生年金ホール)。舞踊「蓬莱」、「殺陣」。  

 

30歳

12月28日(木)

永田雅一大映社長養女の遠田恭子と婚約。日本女子大家政学部在学中の彼女とは、前年十月に初めて会った時から、明るく陽気で、温かな人柄に惹かれる。結婚後も大学に通い、幼稚園の先生の資格を取るという彼女に、「そんなに幼稚園が好きだったら、幼稚園が顔負けするほどどしどし子供をつくらな」と、幸福そのものだった。

週刊平凡より