1962(昭和37)年 |
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1月1日(月) |
「橋幸夫ワンマンショー」特別出演(浅草国際劇場)。1日〜3日、「寿三番叟」を踊る。
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2月28日(水) |
「藤間勘五郎舞踊会」出演(京都南座)。「喜三の庭」を踊る。
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3月27日(火) |
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28日(水) |
アメリカ、ハワイへ新婚旅行出発。4月13日に帰国。
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1963(昭和38)年 |
31歳 |
5月10日(金) |
長女・尚江誕生。
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8月10日(土) |
フジテレビ「スター千一夜」出演。
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32歳 |
11月 |
「眠狂四郎殺法帖」に主演。以後シリーズ化され、十二本も製作されるなど、眠狂四郎は雷蔵晩年の当たり役となるが、最初この話を持ち込まれた原作者の柴田錬三郎は、映画化を渋っていたという。柴田を訪ね、執拗に食い下がる雷蔵に、こう言った。「じゃあ、ここで円月殺法をやってみろ」。ぐるりと手を回すだけの雷蔵に、「トンボ取りじゃない」とすげない。数日後再び訪れた雷蔵は、腰のところでいったん刀を手のひらで返す円月殺法を演じてみせ、柴田を承知させた。
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1964(昭和39)年 |
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1月 |
日生劇場のこけら落とし公演大歌舞伎出演。昼の部「勧進帳(富樫)」、夜の部「一ノ谷物語(敦盛)」。しかしこの時、雷蔵は病魔に冒され、肉体的な苦痛と闘っていた。
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5月12日(火) |
長男・光紀誕生。
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8月18日(火) |
大映京都撮影所演技研究所で一日講師を務める。
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33歳 |
11月19日(木) |
「剣」で京都市民映画祭主演男優賞受賞。
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1965(昭和40)年 |
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3月1日(月) |
フジテレビ「スター千一夜」出演。
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4月19日(月) |
杵屋勝東治「長唄の会」賛助出演(虎ノ門国立教育会館)。長唄「吾妻八景」。
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28日(水) |
同志社大学特別講師として栄光館(講堂)で日本映画論「人間が人間を創造するとき」を講演。
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34歳 |
8月31日(火) |
後援会誌「よ志哉」廃刊。
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11月 |
大阪新歌舞伎座「秋のスターまつり」出演。昼の部「番町皿屋敷(青山播磨)」「若親分(南條武)」、夜の部「将軍江戸を去る(山岡鉄太郎)」「花吹雪お静礼三郎(根岸の礼三郎、後の柳沢豊後守)」。共演は寿海、朝丘雪路。
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1966(昭和41)年 |
35歳 |
9月 |
大阪新歌舞伎座出演。昼の部「眠狂四郎勝負(眠狂四郎)」、舞踊詩「競華扇(獅子・那須与一・足利直氏・若旦那)」、夜の部「獄門帳(三枝喬之介)」「切られ与三郎(与三郎・男獅子)」。共演は朝丘雪路。
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1967(昭和42)年 |
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2月20日(月) |
「華岡青洲の妻」などでNHK映画最優秀主演男優賞受賞。25日(土)にキネマ旬報主演男優賞受賞。
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1968(昭和43)年 |
36歳 |
1月11日(木) |
劇団「テアトロ鏑矢」結成発表。第一回予定作は「海の火焔樹」(人見嘉久彦脚本)。七月か八月に東京で公演予定だった。
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5月21日(火) |
次女・有美誕生。
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6月11日(火) |
「関の弥太っぺ」出演中に激しい下血。東京・お茶の水の順天堂病院に入院し手術。7月5日(金)退院。
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8月13日(火) |
東京・麹町の秋山スタジオで44年度大映カレンダー撮影。
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37歳 |
11月 |
「華岡青洲の妻」で京都市民映画祭主演男優賞受賞。
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1969(昭和44)年 |
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1月 |
「博徒一代血祭り不動」を撮了、次回作「千羽鶴」の衣裳合わせを終え、撮影の準備中に倒れ、明治座出演中止。「短夜」「切られ与三郎」で朝丘雪路と共演予定だった。
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2月10日(月) |
東京新宿の朝日生命成人病研究所に入院。 |
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7月10日(木) |
病状の悪化から呼吸困難に陥る。
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17日(木) |
午前8時20分、肝臓ガンのため永眠。享年37歳。
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23日(水) |
東京・大田区の池上本門寺にて告別式。戒名は「大雲院雷蔵法眼居士」。
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10月24日(金) |
百か日法要。身延山に分骨。
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11月9日(日) |
京都市民映画祭マキノ省三賞受賞。
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1970(昭和45)年 |
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5月 |
池上本門寺五重塔そばに墓碑完成。
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三一書房「市川雷蔵」より(加筆あり)