1962(昭和37)年

 

1月1日(月)

「橋幸夫ワンマンショー」特別出演(浅草国際劇場)。1日〜3日、「寿三番叟」を踊る。  

 

 

2月28日(水)

「藤間勘五郎舞踊会」出演(京都南座)。「喜三の庭」を踊る。

 

 

 

3月27日(火)

東京・赤坂のホテル・ニュージャパンにおいて大日本製糖社長の媒酌で挙式。新郎の雷蔵はタキシードの胸にカトレアの花をつけ、新婦の恭子(後に姓名判断で雅子と改名)は純白のレースのウエディングドレスにチュールを長く引いていた。
来賓、三島由紀夫の祝辞は  
「雷蔵さんが美しい恭子さんとご婚約直後とうけたまわっておりますが、恭子さんがお母様と京都へ雷蔵さんをお訪ねになった時のこと、お母様は気をきかせて、ちょっと席をはずされました。初めて雷蔵さんと二人で残された恭子さんは、ドキドキして何事が起こるかと思っていると、雷蔵さんはやおら傍らの新聞を取って読み出したのであります。甚だ色気のない話だとお思いでしょうが、私はそのエピソードを聞いて非常に親しみを感じたんです。雷蔵さんも戦中派の一人であって、はにかみ多き甘き日本男児の一人なんだなと。これは今のアプレにはわからない心境でしょう。新聞を読んでいる雷蔵さんのドキドキと、幸福感は他のいかなる行動よりもありありと感じられたんです。またひとつは、雷蔵さんの俳優としての着眼であります。やはりこの場合新聞でなければいけない。そばにあった週刊誌でも困るし、電話帳を読み出したらぶち壊しになる。その新聞という小道具の選択に非常に洗練された味わいがある…」

 

 

 

 28日(水)

アメリカ、ハワイへ新婚旅行出発。4月13日に帰国。  

1963(昭和38)年

31歳

5月10日(金)

長女・尚江誕生。  

 

 

8月10日(土)

フジテレビ「スター千一夜」出演。  

 

32歳

11月

「眠狂四郎殺法帖」に主演。以後シリーズ化され、十二本も製作されるなど、眠狂四郎は雷蔵晩年の当たり役となるが、最初この話を持ち込まれた原作者の柴田錬三郎は、映画化を渋っていたという。柴田を訪ね、執拗に食い下がる雷蔵に、こう言った。「じゃあ、ここで円月殺法をやってみろ」。ぐるりと手を回すだけの雷蔵に、「トンボ取りじゃない」とすげない。数日後再び訪れた雷蔵は、腰のところでいったん刀を手のひらで返す円月殺法を演じてみせ、柴田を承知させた。

柴錬さん 狂四郎と対面

週刊新潮より

1964(昭和39)年

 

1月

日生劇場のこけら落とし公演大歌舞伎出演。昼の部「勧進帳(富樫)」、夜の部「一ノ谷物語(敦盛)」。しかしこの時、雷蔵は病魔に冒され、肉体的な苦痛と闘っていた。  

 

 

5月12日(火)

長男・光紀誕生。  

 

 

8月18日(火)

大映京都撮影所演技研究所で一日講師を務める。  

 

33歳

11月19日(木)

「剣」で京都市民映画祭主演男優賞受賞。  

1965(昭和40)年

 

3月1日(月)

フジテレビ「スター千一夜」出演。  

 

 

4月19日(月)

杵屋勝東治「長唄の会」賛助出演(虎ノ門国立教育会館)。長唄「吾妻八景」。  

 

 

28日(水)

同志社大学特別講師として栄光館(講堂)で日本映画論「人間が人間を創造するとき」を講演。  

 

34歳

8月31日(火)

後援会誌「よ志哉」廃刊。  

 

 

11月

大阪新歌舞伎座「秋のスターまつり」出演。昼の部「番町皿屋敷(青山播磨)」「若親分(南條武)」、夜の部「将軍江戸を去る(山岡鉄太郎)」「花吹雪お静礼三郎(根岸の礼三郎、後の柳沢豊後守)」。共演は寿海、朝丘雪路。  

1966(昭和41)年

35歳

9月

大阪新歌舞伎座出演。昼の部「眠狂四郎勝負(眠狂四郎)」、舞踊詩「競華扇(獅子・那須与一・足利直氏・若旦那)」、夜の部「獄門帳(三枝喬之介)」「切られ与三郎(与三郎・男獅子)」。共演は朝丘雪路。  

1967(昭和42)年

 

2月20日(月)

「華岡青洲の妻」などでNHK映画最優秀主演男優賞受賞。25日(土)にキネマ旬報主演男優賞受賞。  

1968(昭和43)年

36歳

1月11日(木)

劇団「テアトロ鏑矢」結成発表。第一回予定作は「海の火焔樹」(人見嘉久彦脚本)。七月か八月に東京で公演予定だった。  

 

 

5月21日(火)

次女・有美誕生。  

 

 

6月11日(火)

「関の弥太っぺ」出演中に激しい下血。東京・お茶の水の順天堂病院に入院し手術。7月5日(金)退院。

 

 

 

8月13日(火)

東京・麹町の秋山スタジオで44年度大映カレンダー撮影。

 

 

37歳

11月

「華岡青洲の妻」で京都市民映画祭主演男優賞受賞。  

1969(昭和44)年

 

1月

「博徒一代血祭り不動」を撮了、次回作「千羽鶴」の衣裳合わせを終え、撮影の準備中に倒れ、明治座出演中止。「短夜」「切られ与三郎」で朝丘雪路と共演予定だった。  

 

 

2月10日(月)

東京新宿の朝日生命成人病研究所に入院。

 

 

7月10日(木)

病状の悪化から呼吸困難に陥る。  

 

 

17日(木)

午前8時20分、肝臓ガンのため永眠。享年37歳。

 

 

 

23日(水)

東京・大田区の池上本門寺にて告別式。戒名は「大雲院雷蔵法眼居士」。  

告別式参列者

 

 

10月24日(金)

百か日法要。身延山に分骨。  

 

 

11月9日(日)

京都市民映画祭マキノ省三賞受賞。  

1970(昭和45)年

 

5月

池上本門寺五重塔そばに墓碑完成。  

三一書房「市川雷蔵」より(加筆あり)