舞踊 助六

 最初の上演は正徳三年(1713)で、それから絶えず同じ材料で、同じ様な芝居は上演されていたのですが、毎回多少の改訂を経て段々と今の様になったので、現在保存されている。

 「助六由縁江戸桜」は多分寛延頃に固まった狂言ではないかと思われる。曾我の五郎時致は花川戸の助六と名を替えて、吉原の曲輪へ入込み、友切丸の詮議をしていた。兄十郎も白酒売新兵衛となって探している。母の満江は二人の放埓者と罵り、助六に紙衣を着せて兄と共に帰る。揚巻の客の意休は実は伊賀の平右衛門といって、友切丸を盗んで持っていった。

 助六はそれを見出して意休を討ち取り友切丸を取り返し、揚巻と共に逃げる。この間に意休の子分の朝顔仙平とかんぺら門兵衛福山そばの担ぎ、傾城白玉等が現われて、にぎやかにして亦美しい元禄の昔が何処かに残っている狂言である。

市川雷蔵氏の 

  舞踊「助六」  石井国之

 後援会の春の集いの時、「お祭り」を踊って好評を博した市川雷蔵氏が、今度の第一回秋の集いに「助六」を踊るそうだが、これも容姿端麗の雷蔵氏にはぴったりとした適役で、誠に結構な事と大いに期待する。

 私が十五世市村羽左衛門(先々代)の助六を始めて見たのは明治三十九年五月の歌舞伎座だった。それ以来同丈の助六は欠かさずに見たことを思い出す。

 歌舞伎十八番の中「助六」の舞踊の由来は、正徳三年(1713)の山村座狂言「花館愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で、二世市川団十郎が、助六の出端に此所作を演じたのが始めで、此時の地方は江戸半太夫であったが、寛延二年(1749)に演じた時は、外題が「助六廓の家桜」で、地方は半太夫の門から出て一派を成した江戸河東がつとめ、その以後主として河東節で演じるようになったのである。その外題が「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)となったのは宝暦十一年(1761)、市村亀蔵(後九世羽左衛門)が市村座で演じたのが始めで、この外題を現今でも用いている。

 以来、この助六の出端の所作が単独舞踊化され、市井の舞踊にまで発展するようになったのである。

 助六を変化舞踊の中に取入れたものとしては、天保十年(1839)中村座で、四代目中村歌右衛門が演じた八景所作事「花翫暦色所八景」(はなごよみいろのしょわけ)が名高く、この時に「吉原に助六の夜の雨」という見出しでつとめたのが、今盛んに行われている長唄の「助六」である。このほかに、常磐津、清元の「助六」も舞踊に用いられている。(筆者は・都芸能新聞社長)