そんな意味から考えて、これまで撮って来た五十本の作品の中で、ファンの方々の好みや、私の好き嫌いを別として、厳密な意味で世間に認められたものといえば、『新・平家物語』と『炎上』の二本があった事が浮んで来ます。私としては先に述べた様な状態の四年半であり、そんな日本映画界あったにも拘らず、二本も世間から認められるものがあった事は、確かにラッキーだったと喜ばないではいられません。それと同時に今後は、この二十五本に一本という仕事では満足してはいけないとも、痛感させられます。もっと自分の力を発揮されねばならないと思うのです。

 この心構えは俳優としての私は勿論、会社にも持って欲しいものです。俳優というものは、いたずらに興業的安全のみを狙った作品に出るばかりでなく、演技のやり甲斐のある、芸術性を買われる作品がないと、進歩しないと思います。こうしたものを一つの段階として成長して行くのです。今、次の時代劇を受け継ぐべき使命を負っている若い者が、何人かいます。勿論、個人、個人はそれぞれ競争もありますが、大きい意味では、その一人一人がそうした重大な責任を担っているのです。それはいいかえれば現代に生活している我々が撮る以上、我々と同じ感覚で、時代劇を作って行くべきで、従来時代劇といえば歌舞伎から受け継がれた、約束事とか、型とかを基底においたのに対し、我々は今や演技においても、シナリオにおいても打破って行かねばならなぬ責任を、分ち持っているという事です。

 これまではシナリオにおける主人公の描き方が、どちらかといえば、それを演ずる俳優の長所を誇張して描いてきたきらいがあり、それが又、時代劇演技の基本にもなっていました。しかし私はそうしたやり方よりもシナリオに描かれた役なり性格なりを、素直に真面目に演ずる態度こそ、好ましいと思います。というのは映画と歌舞伎とを対比して見るとき、歌舞伎の良さは永い伝統に、磨き上げられた様式の美の、いわばいぶし銀の様なさびた味わいを尊ぶものですが、映画の場合、常に瑞々しい、新鮮さをたたえていなければならないのです。

 私は毎月約一本の割で、スクリーンから皆さんにお目にかかっているわけですが、その意味から、その一本一本でという事はむずかしいとしても、常に、メーキャップなり、衣裳なり、演技なりに固定しない様、私の俳優としての生命力に、新しい息吹きを与えつづけています。五十本出演を記念するに当って、私はこの心構えを一層強固にすると共に、今後ともに、益々皆さんの御支援を心からお願い致します。