明日への希望

 私の最初の養父母は、関西歌舞伎の市川九団次夫妻であります。九団次の妻のはなが、私にとっては実の伯母に当るわけですが、この私自身の出生の秘密を、私はずいぶん長い間知らずにきました。

 私がそれを知ったのは、天王寺中学に通っていた頃−十六歳のときでしたが、私も口に出していいませんでしたし、九団次も、それについては一言も触れませんでした。こういう養父の、人間としての生き方を実に立派だった、と私はおもっています。生活は豊かとはいえませんでしたが、私はのびのびと育ち、養父母も将来の一切の夢を、私の一身に託してくれていたようです。

 私の最初の舞台は、その十六歳の秋、大阪歌舞伎座で「中山七里」の茶屋娘のお花でしたが、私をこの世界にひきこんだものは、なんとなく父の芝居を見にいっているうち、私はなすこともなくぶらぶらとしていることに耐えられなくなったというより、そういう私を鞭打ってくれた私自身の潔癖からといえましょう。いまでも私という人間のなかには、のらくらとしていたいという怠惰な気持がないとはいえません。それを鞭打ってくれるのは、わずかにまだ私のなかに残っている私の潔癖だとおもっています。

 やがて縁あって私は、歌舞伎の名門と呼ばれる市川寿海の家の子となることになりましたが、それはまったく自分の気持を無にして、私のことだけを考えぬいてくれた九団次の深い愛からで、私はますます頭がさがらないわけにはいきません。

 私は人間が、いつ、どこで生れたかということは、それほど重大なことだとはおもいません。それより、現在、どう生きているかということの方がずっと大切で、人間は過去にこだわらず、明日への希望をもって生きるべきものだと信じています。

 私もいつか結婚して、子供を持つ親となることでしょう。その子をどう育てるかということは、なかなかむずかしいことですが、私は先日、大阪に出かけ、梅田から車に乗ったとき、ふと考えたことがあります。もし将来、自分の子が生まれたら、駅からすぐ車に乗って、楽をして、自分の好きなところにいけるような人間としてではなく、満員電車の運転席のわきで、しっかりと境の棒につかまって四囲の景色を眺めながら、元気に歌を唄っていくような子供に育てようと・・・。ごく当たり前の苦労を知らないで、子供が育つということは悲劇です。実は踏まれれば踏まれるほど、強くなるということは、私にとっても、私の子供にとっても、本当のことのはずだからです。