純粋に生きる

 このあいだNHKテレビの「西条八十ショウ」を見ていて、感動したことがあります。西条先生が詩を作りたい、作りたいとおもいながら、貧乏でなかなかできない、このまま死んでしまうのかと考えながら、その気持をそっくりそのまま写してできたのが、あの「うたを忘れたカナリヤ」という歌だったという話をなさっていました。

 「ああ、そうだったのか」私たちはいままで、なんにも知らずに「うたを忘れたカナリヤは・・・」と歌っていたが、あの歌には、そんなに悲壮な先生の感慨がこめられていたのかとおもうと、何ともいえない感動に私は胸を打たれました。才能がありながら、世に、恵まれない人というものは、いまの世の中にもたくさんあるとおもいます。

 純粋に生きるということは、人間の一生を通じて忘れてはならないことですが、そう考えるあまり、ときに死を選ぶ人があるのはどういうものでしょうか。どんな理由があるにせよ、自分のいいたいだけのことをいって、死んでしまうということは卑怯です。人生の敗北以外の何ものでもありません。もっと自分の値打ちに目ざめなければいけないとおもいます。私も小さいときから何度も、人生の苦しい場面に立たされたことがあります。しかし、そのたびに私は反撥し、立ち上がり、生きてきました。立ち向かうべき相手が、強ければ強いほど、私の勇気は奮い立ちました。

 私の知人にも二人ほど、自殺を図った人があります。一人は死に、一人は助かりました。その人は二度ならず、三度までも死を計画しましたが、そのたびに未遂におわりました。死ぬということが純粋で、貴いことだとおもっているのでしょうが、これは滑稽です。

 人間の考えには、時間が必要です。一時におもいつめると、なにもかも見えなくなるものです。自分を悲劇のヒーローのように考えないことが、大切だとおもいます。私にしても、二つのことのうち、どちらか一つを選ばなければならないという立場に、これまで立たされたこともあり、これからもあるとおもいますが、よく考えれば、道は自ずと一つだということがわかります。ほんとうの意味で、純粋に生きるということは、実にむずかしいことだとおもいます。

 才能がありながら不遇の人を見ると、私は自分の力でできるだけのことをしたいという気持ちになりますが、それは私のできないことを、それらの人たちが満たしてくれるとおもうからです。私が求めるのは、仕事を通じて共鳴できる友人です。尊敬できる友人に接していると、自分もだんだんその人に似てくるような気がするからです。私は新劇の仲代達矢君と仲良しですが、それは彼が偏見というものを持たない男だからです。