雷蔵兄貴のこと

 僕が雷蔵さんを語るなど甚だ恐れ多いと思っている。しかし、これは決して遠い雲の上に居る偉い人だと云う事でなく、僕の様な若者を弟以上に御指導下さり、又、可愛がって下さる事を、光栄と思っている。

 僕のデビュー曲「潮来笠」が大映で映画化され、僕も映画界に入らせて戴く事になり、京都撮影入りした当時は、出演日数も少なかったが、只、所内をウロウロするばかりでいた僕が、二本目の「木曽ぶし三度笠」の撮影に京都入りした時に、始めて雷蔵さんを紹介して戴いた。僕は、只感激の態で何もしゃべれなかった事を記憶している。その僕が三本目、四本目と出演する頃には、撮影の仕事にもなれ、マラ、雷蔵さんともお話し出来る様になった。勿論、雷蔵さんが何くれとなく御指導下さったお蔭だからです。

 雷蔵さんは、仕事中は仕事一筋に打ち込み、一生懸命仕事をされる姿を度々拝見しているが、反面仕事からはなれた雷蔵さんは、芸能人気質どこ吹く風と、おごった所なく「橋君、橋君」と呼んで下さり、「人間は己一人がたよりだよ、僕なんかは、兄弟もなく、両親も早く亡くなって、小さい頃から封建制の強い歌舞伎の舞台に立たされ、辛い事だらけだったが、橋君は、両親も健在だし、多くの兄姉さんを持ってほんとうに幸せだよ。しかし、芸能界は厳しい所だし、この厳しさに耐え、一生懸命勉強して行く事だよ。若い橋君は遊ぶ暇もなく大変だろうが、芸能人である以上はそれも諦めるんだなあー」と夕飯を御馳走になり乍ら、云われた事を今でもはっきりと憶えている。

 それから今日迄、僕も一生懸命歌に映画に頑張った。お蔭で「橋君も大分映画にもなれ、上手になったよ」とおほめの言葉を頂いた。よくファンから今まで出演した映画で印象に残った作品はときかれると、「おけさ唄えば」と答える。あの作品は、本当に楽しい想い出となっている。

 又雷蔵兄貴は、僕のステージにも応援出演して下さり、此の事はファンの皆様もよく御承知の事と思う。六月に「悲恋の若武者」撮影中、雷蔵兄貴夫妻より夕食に招かれ、鳴滝の新居を訪問した際、新居をすみずみまでも案内して下さり、夕食には奥様自らの手料理で、雷蔵兄貴「今夜の料理は何ですか?」と、優しい声で奥様「今夜は橋さんが見えたので、フランス料理を作ってみました。沢山召し上がって下さいね」と云われ、「ホー」と雷蔵兄貴笑みを顔に「中々きれいな料理ですねー」御夫妻の語り合う情景は本当に幸福そのもの。僕には恋だの、愛だのはよく判らないけれども、たっぷりと優しい愛情に結ばれた新婚生活の一端を見せて頂き、十二時すぎまでおじゃましてしまった。

 雷蔵兄貴は「街を歩いてもファンはぜんぜん気づかず、平凡なサラリーマンと云う感じの人としか見えない」と云われるが、派手な服装もせず、自分のペースで生活をエンジョイされる事に僕も尊敬している。その兄貴がスクリーンで見る時は、仕事への情熱がありありと判る。

 九月に多摩川撮影所でお会いした折「どうだ元気でやっているかい」「ええ、お蔭様で、でも毎日忙しくて遊ぶ暇もなくなく弱いですよ」「結構な事じゃないか。若いうちにせいぜい働きなさい。年寄ってからは働けないよ」と、早速僕に忠告をあたえて呉れる兄貴の心情に感激した。

 先日も、僕が急性盲腸炎で入院した時、一番に京都より御見舞品を届けて下さり、優しい兄貴に心より感激した次第。世間で、僕と雷蔵兄貴とよく似ていると云われるが、顔形だけでなく社会人として芸能人として、雷蔵兄貴以上に立派な人になりたいと考えている。それが雷蔵兄貴への最高の恩返しの出来る道だと信じている。(よ志哉32号より)

 

橋君の後援会発会式で