時代映画前進の年に『明日を求めて』

浅沼稲次郎氏の刺殺事件(註:昭和35年10月12日、社会党委員長浅沼稲次郎氏が右翼の少年、当時17才の山口二矢に刺殺された事件)に端を発して、近ごろでは刃物に対する取締りが表面化してきたようですが、この動きはその程度でおさまらず、いずれ遠からず映画の方へも何らかの申し入れがありそうな気運がうかがわれます。

もちろん、私もその事件をテレビニュースや新聞の写真で見たとき、あの山口少年の姿勢や動きに、何か時代劇的なものを感じて、大いに考えさせられるものがありましたが、だからといって、そんな末梢的な事柄だけを捉えて、刃物や映画にのみ罪をきせるのはどうかと思われます。

私たちの少年時代でも、やはり時代劇には殺陣がありましたし、それをよろこんで見たものですが、現代ほど血腥い事件が頻発したとは記憶していません。要は映画やテレビの受入れ方にあり、学校や家庭内教育、社会情勢その他いろいろのところにもっと根深いものがひそんでいるのです。

そうはいってももし、戦争直後GHQの監理下におかれたような、時代劇に対する圧力が加わったとしたら、再びあの頃のような無味乾燥作品を作らねばならぬこととなり、これらも考え合わせて、現在われわれの作っている時代劇をよく反省してみる必要がないとはいえません。

そういえば、殺陣場面が安易に挿入されているものがいかにも多いのです。勧善懲悪の手段として、簡単に斬り合ったり、人を殺したりするだけで、そこに何らの必然性が劇と密着していない時代劇があまりにも多すぎます。いまや、時代劇のそういった安易な構成法はよくないと思いますし、最近時代映画が昔ほど当らなくなった大きな原因の一つとも考えられます。乱作競争のあおりを食って同じ素材が何回となく蒸し返して映画化され、堂々めぐりをしている状態では飽きられても仕方がないでしょう。

時代劇も年とともに変って行くのが当然です。そのためには、従来のように筋が先にあって人間が無意味に躍らされるものでなく、まず最初に人間があり、その性格によって話が発展していくような方向に持って行くべきだと思います。

去年ごろから大映でも、この時代劇の体質改善を目標に、従来の常識を破った冒険的な素材をいろいろと意欲的に手がけて来ました。結果は必ずしも興行的に成功をおさめたとはいえないかも知れませんが、これにくじけずに、更に意欲を盛り上げて、試掘を続けて行くべきで、やがて新しい時代劇の鉱脈があちらこちらに見出されるでしょう。そしてこれこそが、われわれ若い者たちの使命だと信じています。

今年は私も「濡れ髪牡丹」「好色一代男」などをはじめ、幾多の新鉱脈を探るべく、大いに努力する意気込みです。

また私はこの間から「大菩薩峠」の机竜之助を演じていますが、こういった役柄も俳優としての巾なり年輪なりを加える意味で、一度はやっておかねばならぬ過程だと思っています。しかし、同時に映画は古典化された伝統芸術とちがうのですから、時代劇がこれまで歩んできた道や形に捉われることなく、私たちは私たちだけの新しい道を見つけ出さねばならないところに、意義なり生命があるのだと考える次第です。

新しい冒険のあるところに、新しい時代が生まれてくるのです。私たちは臆病であったり、不精であってはいけない。傷だらけになっても、たえず冒険を求め、それにぶつかって行かねばなりません。

そして、宝物や巻物や地図が主人公だった時代劇にもうこの辺で「さようなら」を告げようではありませんか。( 時代劇映画 1961年1月号より )