市川雷蔵の「微笑」 - 三島原作映画の市川雷蔵 −

はじめに

 三島由紀夫の『橋づくし』(文芸春秋 S31年12月)には「映画俳優のR」が出てくる。新橋の料亭の箱入娘満佐子が「一緒になりたい」と願う相手である。満佐子は、「Rの甘い声や切れ長の目や長い揉上げを心に描」きながら、料亭に来た時のRを思い出す。「Rがものを言ったとき、自分の耳にかかったその息が、(中略)夏草のいきれのように、若い旺んな息だったと憶えている。」 -

 前田愛は、この映画俳優Rは市川雷蔵であるらしいと言っている。『橋づくし』が書かれた当時、市川雷蔵は、溝口健二監督映画『新・平家物語』(昭和30年)で注目されていた大映の新人俳優であったから、右の引用から雷蔵を想起するのも無理でない。二年後に映画『炎上』(昭和33年)で主演を務めることになる雷蔵であるだけに想像は膨らむ。

 三十七歳の若さで亡くなった俳優市川雷蔵は、十五年間の俳優生活で百五十八本という数の映画を残している。単純計算でも、年間平均十本以上の映画に出演したことになる。

 昭和三十年代、日本の映画隆盛期に「大スター」と呼ばれた俳優にとっては、この出演数は驚くべきものではない。昭和三十三(1958)年には、総人口が一億人に満たないも拘らず、映画観客寺院公が十一億二千七百万人に達したという。映画会社もこのチャンスを逃すまいと映画を量産した時代である。

 市川雷蔵は昭和二十九(1954)年、二十三歳で歌舞伎界から映画界に入った。デビュー作『花の白虎隊』で勝新太郎と共演し、以後二人は、長谷川一夫の後継者として「大映名物カツ(勝)ライ(雷)ス」と言われ、「スター」の仲間入りを果した。しかし、雷蔵はその「スター」の地位に安住することのない、非常な野心家であった。

 雷蔵は長谷川一夫の「美剣士」を継承し、ファンの期待を裏切らないようにそれを守りながらも、新しい市川雷蔵像を作り出していった。歌舞伎や文芸作品の映画化、『眠狂四郎』や『忍びの者』に代表されるシリーズものの開拓、最晩年の劇団立ち上げ(ポスターまで完成していた第一作目の公演は雷蔵の死により未完となった)など、俳優市川雷蔵の幅の広さと可能性を知らしめた。

 そんな市川雷蔵にとって、映画デビューをして初めて俳優としての転機となった作品が『炎上』なのである。言うまでもなく、三島由紀夫『金閣寺』(「新潮」昭和31年1月〜10月)の映画化である。その後、三島原作の映画をらいぞうが演じたのは、『剣』(昭和39年)だけであるが、『炎上』、『剣』のこの二作品は、雷蔵の俳優人生の中でも異彩を放っている。

 本論ではまず、映画『炎上』、『剣』を市川雷蔵の側から見ていき、原作へと言及していきたい。