市川雷蔵の「微笑」 - 三島原作映画の市川雷蔵 −

 原作者三島は、映画の制作途中の雷蔵を見ている。三島が撮影現場を見学した日の日記に、

 頭を五分刈りにしら雷蔵は、私が前から主張していたとおり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない。(「『炎上』撮影見学 六月七日(土)」「新潮」昭和三十三年八月号 <日記 (五)抜粋>)

と書いている。三島は雷蔵主演の成功を確信していたようだ。この撮影見学は、三島が新婚旅行の途中に寄ったもので、瑤子夫人も一緒だった。この時の一場面は写真として残っており、市川雷蔵の写真集『孤愁』に収められている。

 ちなみに、三島と雷蔵にはこんな不思議な繋がりもある。昭和三十七(1962)年三月に行われた雷蔵の結婚披露宴に三島は出席し、ユーモアに富んだスピーチをしている。三島は新郎代表の一人としてスピーチをしたが、新婦代表の中には、新郎の学友として瑤子夫人の妹、杉山(王偏に橘の右側の漢字)子がいてスピーチをしたという。

 さて、『炎上』撮影見学の約二カ月後に、三島は大映本社で完成した映画の試写会に参加している。

 この映画は傑作というに躊躇しない。(中略)俳優も、雷蔵の主人公といい、鴈治郎の住職といい、これ以上は望めないほどだ。試写会のあとの座談会で、市川崑監督と雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。こういう映画は是非外国へ持って行くべきである。(「『炎上』八月十二日(火)」「新潮」昭和三十三年十月号 <日記 (七)抜粋>)

 『炎上』の前年に上映された映画『美徳のよろめき』を「これ以上の愚劣な映画というものは、ちょっと考えられない」(『三島由紀夫映画論集成』)とまで言った三島が、『炎上』や雷蔵の演技に対して大絶賛しているのが分かる。原作者として満足したと同時に、原作を離れて独立した映画作品としても感動を味わったのだろう。

 映画全体の評として、有吉佐和子原作『華岡青洲の妻』(昭和四十二年)などで雷蔵と仕事をした増村保造は次のように言っている。

 「映画にならない小説」を見事に映画化した成功例として『炎上』がある。三島由紀夫氏の小説「金閣寺」に於ける金閣は、主人公にとって、一つの主観的な美意識であり、映画が追及するには厄介な対象であった。ところが市川監督は、映画化に際し、この「金閣」を、主人公の父親への愛情と、社会的な正義感の結晶に転換し、彼の金閣に対する愛情を見事に客観的に描き出したのである。『炎上』はその意味で、小説の鮮やかな映画的再構築と云えるであろう。(「原作映画とその映画化」「映画評論」1959年7月号、引用は増村保造『映画監督 増村保造の世界』ワイズ出版、1999年3月)

 また、この映画から四年後、昭和三十九(1964)年一月に雷蔵が、武智歌舞伎のメンバーとして久しぶりに舞台に出演した際、三島は、「雷蔵丈のこと」(日生劇場プログラム)という文章を送った。

 君の演技に、今まで映画でしか接することのなかった私であるが、『炎上』の君には全く感心した。(中略)ああいう孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであろう。私もあの原作の「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。そういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。(『三島由紀夫映画論集成』ワイズ出版、1999年11月)

 三島由紀夫にとって『金閣寺』は、それまでの創作活動の集大成であり、これからを指し示す重要な転機となった小説でもある。市川雷蔵にとっても、同じことが言える。同じ作品に人生を賭け、大業を成し遂げた者同士の共鳴というものをこの文章からは感じることが出来る。

 この映画で雷蔵は、キネマ旬報主演男優賞やNHK最優秀主演男優賞を受賞。イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』でも最優秀男優賞に選ばれた。この作品は市川雷蔵の代表作の一つとなり、日本映画史にも残る傑作となった。