市川雷蔵の「微笑」 - 三島原作映画の市川雷蔵 −

 この「微笑」は、三島の行動や肉体の思想とも関係している。例えば、『潮騒』の新治は、『剣』の次郎ほど外界を拒絶してはいない。三島も、新治の「微笑」に思想を持たせてはいない。むしろ、行動する若い肉体に「議論」はいらない、という作者の思想が見え、新治の行動力の隠喩として「微笑」は使われているようだ。『潮騒』が書かれたのは、三島が世界一周旅行で肉体の存在に目覚めたものの、自らの肉体改造を試みる前のことなので、小説も単純に、行動する若者を描写することに主眼が置かれているように思う。

 しかし、『金閣寺』以降の三作品では、主人公の「微笑」は外界という言葉よりも「人生」を拒絶していると言ったほうが適当だろう。それは、三島が「美」に対立するものとして「人生」を置いているからである。特に、『金閣寺』の主人公溝口は、生来の吃音のために自分が「人生」から疎外されていると感じている。「人に理解されないということ」を唯一の誇りとしながら、人並みの「人生の幸福や快楽」、「生活の魅惑」も欲している。しかし、そういうものに手を出そうとすると「金閣」=「美」が現れ、溝口を「無気力」に、不能にする。一方、『剣』の次郎は、「強く正しい者になる」ため、自ら「人生」を拒んでいる、それは『金閣寺』で言うところの「繁殖する」人間の生ではなく、「厳密な一回性」(=「金閣」)を生きているからである。

 つまり、『剣』では主人公が「美」そのものなのである。だから、その「微笑」は「美しい」ものとなる。「人生」を目撃したとき、直面したときに次郎は「微笑」するのである。また、次郎と「人生」の間には、「微笑」とともに剣道が存在する。剣道の勝利だけを目的にすることで次郎は生きている。言うなれば、剣道の防具が「美」そのものの次郎を包み、「人生」から守っているのである。ここで、この二作品の構図を示すことが出来る。主人公と「人生」の間に、溝口には「金閣」が、次郎には「微笑」と剣道がある。そして溝口が「人生」と決別した時、「金閣」は消え、「微笑」が生まれる。つまり、溝口と次郎の「微笑」は「人生」と決別した人間の絶対的な孤独の表明なのである。

 また、溝口と次郎の違いは、やはり鍛錬によって肉体を獲得した三島の「美」に対する捉え方の変化が関係している。三島は、肉体を鍛え出してから映画に出演し、その彫刻的な肉体を露出し始めたが、『からっ風野郎』の増村保造監督の言うように、「文学による「美」の追及だけでは十分でない」と思い、「自分の肉体で「美」を追及し、表現しようとした」のだろう。その変化が溝口、次郎の違いであるといえる。このように各主人公の「微笑」を見れば、三島の思想の変遷が分かるのである。