市川雷蔵の「微笑」 - 三島原作映画の市川雷蔵 −

4 雷蔵の「微笑」

 これまで見てきた三島文学の「微笑」、特に溝口の「微笑」は映画化された『炎上』には残念ながら存在しない。厳密には小説と映画は独立した作品であるから、人物設定や物語が再構成されているのは当然である。映画では、「微笑」のかわりに、雷蔵演じる溝口が、闇夜に浮かぶ驟閣寺(金閣寺)を呆然と見ながら「誰もわかってくれへんのや」と嘆くシーンが加わっている。これが放火への契機にもなっている。

 一方、映画『剣』では、次郎の「微笑」が原作と同様、象徴的、効果的に使われている。規律を乱した同級生の賀川を四十分間の壁面正座で罰した後、「賀川、時間だ」と言って、次郎は面の中で「微笑」する。クローズアップで映された雷蔵の顔には、「剣道で昔から言う「観世音の目」」(『剣』)と口角をわずかに動かした「微笑」があった。

 そもそも「微笑」は、感情が伴わなくても出来る人間の一つの表情だろう。顔の筋肉を少し動かせば「微笑」になる。笑い声も必要ない。先述したように、「微笑」は仮面であり、孤独の表明である。それを雷蔵はさりげなく的確に演じている。市川雷蔵は、『金閣寺』と『剣』の主人公を演じた。それは今まで述べてきたように、「美」から疎外された人物と、「美」そのものの人物の両極を演じることであった。この二作品だけでも、三島作品の男主人公を演じられる俳優は市川雷蔵しかいないと思えるほど、強い印象を観る者に残す。

 市川雷蔵ろいう俳優自体、生活臭がなく人生にも芸道にもストイックなところがあった。そこが、「人生」よりも「美」を選ぶ三島作品の主人公たちを表現できた所以だろう。

 雷蔵は、映画化された二作品の他に、『獣の戯れ』の映画化を計画したり、闘病中にも『春の雪』を舞台でやりたいと構想を練っていたりしたそうである。一人の俳優が、これほどに三島由紀夫作品を映画化し主演したいと言った例が他にあるだろうか。また、増村保造監督と二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという。こういったエピソードから、フィールドが違ってもいても、三島と雷蔵の追及していたものが似ていたことを思わずにはいられない。

 雷蔵が『奔馬』の勲を演じる機会がなかったのが悔やまれる。雷蔵であれば、三島文学の「微笑」系譜を作れたのではないだろうか。