流転有情(三)

 

わたしは、彼を天涯の孤児と書いたが、それは或いは間違っているかもしれぬ。というのは、市川九団次が生前、ある空っ風の吹く歳末の大阪住吉の雑踏の中で、彼の実母をチラッと見かけたことがあると、親しい人に話したことがあった。

 すると、彼の生母は、今日もどっかの空で生きていて、立派になったわが子雷蔵の姿を、スクリーンの上で見ているかもしれない。しかし、そうであっても、今はお互いに親子の名乗りの出来ない運命の母と子でしかない。彼の実母は、京都堀川中立売の大きな糸屋の一人娘であったということだけを付記しておこう。

 雷蔵はこのようにして、九団次の子、竹内嘉男として育ったが、ここで関西歌舞伎の名優とうたわれた市川九団次のことに少しふれてみよう。

 九団次の本名は竹内嘉三といって、父は京都の市会議員もし、のちには京都の府会議長もつとめた竹内嘉作という人で、京都政界では押しも押されもしない人であった。

 その邸宅は、今の京都駅の裏に宏大をほこり、東本願寺の境内とその広さを競い、付近の人たちは、ちょっと買物に出るにも、竹内の土地を踏まなくては歩けないといわれたほどであった。

 そんな素封家のぼんぼんとして、何不自由なく育った九団次であったが、ある日遂に夜逃げして東京に走り、先代九団次に弟子入りして、市川莚蔵と名乗った。

 最初九団次を訪ねた嘉三に

 「うちは弟子なんて取ろうとは思っていません。さあ早く帰ってちょうだい」

 と、師の九団次は冷たく言い放ち、相手になろうとはしなかった。しかし、嘉三の決心は固く

 「死んでも帰りません。きっと一人前の立派な役者になりますから」と腰をすえて、何日も坐り込みをやった。

 九団次は仕方なく京都へ紹介してその身元を調べたところ、前記のような立派な家柄だったし、その執念についに根負けして入門を許したのであった。

 そのうち月日は流れて、嘉三の莚蔵は、青年俳優としてめきめき売り出してきた。そのころあった京都の歌舞伎座へ、鴈治郎らとともに莚蔵の芝居がかかることになった。ちょうど折りも折、それが市会議員の選挙の最中であった。早くから家を飛び出して、父に心配をかけ続けた莚蔵は、親孝行をするのはことの時であると、早速選挙の手伝いをすることになった。

 まず自分が会計をひきうけて経費の節約をし、運動員たちを激励して采配をふり、選挙日の当日は自家用の豪華な人力車にのって、選挙場の周囲何町かの、出入禁止区域すれすれのところを、ぐるぐる、ぐるぐると一日中廻って投票に来る人に挨拶した。