流転有情(四)

  この莚蔵の父を思う真心と、作戦が功を奏して、それまで何度も落選をつづけていた竹内氏は、みごと当選し、おかげで莚蔵の勘当も解かれたのであった。大体この莚蔵すなわち九団次という人は生れつき宣伝の上手な人であった。大体家計はあまり豊かではなかったのに、高野山とか、祇園の八坂神社その他に沢山の石灯籠を寄進した。

「わしは芝居の灯籠大臣になるのや」

 これが九団次の念願であった。ことに祇園の山門を入ったすぐ取っつきにある二基の石灯籠は、高さ七尺にあまる立派なもので、今の金にすれば百万をこす程の豪華なもので、右の一基には

 市川寿海、市川雷蔵 

とあり、左には

 市川九団次、妻亀崎ハナ

と刻まれてある。

 自分はお茶漬を食べても、せっせと寄進灯籠の金をためていたという変った人であった。九団次の念願は、雷蔵を立派な役者に育て上げることと、石灯籠の寄進だけであった。それだけに雷蔵を可愛がったことは、実の子以上で、自分はとぼとぼ歩いても、雷蔵だけは自動車でといった調子であった。そして、不自由な中にも、松竹の芝居へ通わせて、雷蔵に心おきなく勉強させた。

 このようにして京に育った雷蔵は、五歳の時(数え)、例の室戸台風で家がこわされて以来、九団次夫婦とともに大阪に移り、桃ケ丘小学校に入学し、つづいて天王寺中学校に進んだが、成績はいつも一番か二番で、彼としては、芝居とか映画とかには興味が全然なく、将来は医者か、それが駄目なら銀行員になろうと思っていた。

 そのうち昭和二十一年の十一月、大阪歌舞伎座公演の「中山七里」に、茶屋の娘お花で初舞台をふみ、この可憐な姿が大変好評であった。芝居に興味を持ちはじめたのはこの時からであった。そのうち中学校を中退して、関西実験劇場に身を投じ、父の前名市川莚蔵を名乗った。この時の彼の指導にあたったのが有名な武智鉄二であった。

 二十五年五月、文楽座の同劇場第二回公演「妹背山道行」の求女は、専門家にも大好評を博した。そのころ関西歌舞伎の若手としてマークされた。

 まず第一番は中村太郎、ついで坂東鶴之助、中村扇雀、市川莚蔵(雷蔵)および北上弥太郎の鯉昇であった。このうち最も嘱目された中村太郎はその後あまり芽が出ず、現在十吾劇団にいる。鶴之助は富十郎の息子であるが、現在菊五郎劇団で活躍しており、扇雀、鯉昇の北上弥太郎の活躍ぶりは一般に知られるとおりである。

 梨園の名門市川寿海の養子となったのは二十六年六月で、八代目市川雷蔵を襲名したのである。

   

(左から、中村太郎、嵐鯉昇/吉三郎・北上弥太郎、市川九団次、市川寿海)

註:室戸台風は1934(昭和9)年9月21日に、高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3,000人の死者・行方不明者を出した。

文楽座(ぶんらくざ)は、かつて大阪にあった人形十瑠璃の劇場。これが全盛を極めたため、「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となった。1872(明治5)年大坂松島新地に建てられたが対抗する劇場に押されて、1884(明治17)年、御霊神社境内に移転し、全盛を誇った。その後、対抗する劇場は次々に潰れ、唯一の人形浄瑠璃劇場となる。しかし、1926(昭和4)年火災により消失し、翌年1月、四ッ橋に再建されるも、45(昭和20)年戦災で焼失。戦後の46(昭和21)年に再建されたものの老朽化が著しく56(昭和31)年、閉鎖された。Wekipediaより

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