『あゝ海軍』のこと

雷蔵が熱望した『あゝ海軍』は、阿川氏の御意見で、兵学校生徒と、最後の名校長井上成美を軸にストーリーを組み立てることにし、菊島隆三氏にシナリオを頼んだ。オール・スタアの超大作で封切りはお盆と決定した。

しかし、間もなく苛酷な運命が私たちを待っていた。既に製作が決まっていた川端康成原作『千羽鶴』の衣装合わせに撮影所に現われた雷蔵は、仕事が終ると一緒に帰ろうと強引に私を誘った。その車中、彼は身体の不調を訴えたのである。事情を話して平幹二朗さんに代ってもらい、雷蔵は昭和四十四年二月に入院した。

一月程経ったある日、突然、聞きなれた声の電話がかかって来た。病院からだという雷蔵の声は意外に明るかった。その頃、会社では面会謝絶の命令が出ていたが、雷蔵は仕事の話がしたいから、どうしても明晩病院へ来て欲しいと云う。

私が二十分ほど遅刻して病院へ行くと、彼はエレベーターの前に椅子を病室から持ち出して待ちかまえていた(私はこの時まだ彼が癌に冒され数ヶ月の生命だということを知らなかった)。彼は時間を惜しむかのように話しかけて来た。『あゝ海軍』のストーリーと、脚本の進行状況を話すと、彼の目は次第に輝きを増し
てきた。私は彼が病床にいることを忘れたかのように話にのめり込んでいった。入院以来、面会謝絶だった彼の中で、仕事への情熱が一気に噴き上げて来たのだ。三島由紀夫の『春の雪』をやりたいと云う。主人公の年齢が若すぎて無理だと云うと、舞台ならやれるじゃないですか、と追い打ちをかけて来る。雷蔵は
もっと話をしたがっていたが、近く又来ますよと約束して私は席を立った。

その時、雷蔵の口から洩れた言葉を私は終生忘れることが出来ない。「早く仕事がしたい」。心の底からしぼり出すように云ったのだ。

翌日、再び病院から電話がかかって来た。「医者が五月一杯で退院出来ると云ってくれた。『あゝ海軍』のクランク・インを六月まで待って欲しい」。それでは封切日に間に合わぬと云う私に、「お盆の作品は別のものにさし替えてもらえないか、封切りについては永田社長に僕が話します」。悲痛な雷蔵の声がそこでプツリと切れた。それがわが友雷蔵との最後の会話になってしまった。

企画会議の席上、「雷蔵さんの退院までクランク・インを待って欲しい」と云う提案は一蹴された。社長は雷蔵が再び撮影所に戻れぬ事を知っていたのだ。そして、そのことを私たちには最後まで云えなかったのだ。

代役が中村吉右衛門さんに決定したことを報じた新聞を撮影所で見た時、私は思わず蒼白になった。彼は毎朝自宅から新聞数紙を病院に運んでもらっていることを思い出したのである。雷蔵邸へ電話したが、車は出た後だった・・・。

雷蔵の没後、私はこの時のことを夫人に訊ねた。やはり彼はあの時、すべてを新聞で読んでしまったのだ。「それで、彼は何と云いましたか」。云って取り返しのつくことではないが、私は祈るような気持ちで尋ねた。「主人は読んだ後、暫くの間黙りこんでいました。そして、その日以来、仕事のことは一度も云わなくなりました」と。

あの時、病床にいる友に事情を話して諒解をとりつけるという残酷な仕事が私に出来ただろうか。私は生涯重い十字架を背負って歩くことになった。『あゝ海軍』は、彼が生死の境をさまよっている七月十二日、全国の大映系映画館で公開され、大ヒットを記録した。

二十三回忌

雷蔵逝って二十三年。
歳月は矢のように流れ去った。そして今、雷蔵ブームだという。嘗ての雷蔵主演映画が各地で上映され、年配のファンはもとより、若い人たちに歓迎されていると聞く。私は見に来て下さった方一人一人に心からお礼を云いたい。雷蔵という稀有の才能と、大映の秀れたスタッフが作り上げた映画が、今も尚、愛され続けているということは、映画製作者冥利につきることではなかろうか。

雷蔵没後、私は毎年命日が来ると雷蔵邸へお詣りに行く。たった一回だけ行けなかった年があった。十年程前、私はケンゾー氏とモロッコで映画を撮っていた。サハラ砂漠に近いザゴラという灼熱の町で悪条件と戦っていた。ある日、ふと私は翌日が雷蔵の命日であることに気付いた。モロッコに居る身で墓参に行ける筈もない。その夜、海軍士官の凛々しい軍服姿で雷蔵が私の部屋へ入って来た。私たちは久方振りの再会を喜んだ。夢が醒めた時、私は部屋のカーテンを引いた。未だ明け切らぬモロッコの大地はひっそりと静まり返っていた。その時、私は雷蔵が地の果てのような場所で、映画への夢を追い求めている私を激励に来てくれたのだと思った・・・・。

そして、今年も又、私は雷蔵の霊前にぬかずいた。終っていつものように雅子夫人と、今や立派に成人した三人の子供と談笑していた。雷蔵夫妻の結婚披露宴の時の三島由紀夫氏のお祝いのスピーチを思い出して、その真偽を夫人に訊ねた。

雷蔵が婚約して最初に夫人が京都を訪れた時のことである。料亭で二人きりになると、二人は話のつぎ穂がなくなり黙り込んでしまった。三十歳で既にスタアとして脚光を浴びていた雷蔵は、二十一歳の女子大生を前にして、まるで十代の少年のように純情そのものだった。会話につまった雷蔵は、やがて事もあろう
に、部屋にあった電話帳をめくり始めたのである・・・・。三島さん一流の機智に富んだスピーチに、会場は温かい笑いにつつまれた・・・・。
「どうして?」若い子供達、今の若者にとって全く理解のゆかない事で、彼等は笑いころげてしまった。

話はやがて日本映画に移っていった。二十三年間に、日本映画界は急激に流れを変えた。空前の活況を呈しているアメリカ映画に較べ、今、日本映画は衰退の一途を辿っている。雷蔵が生きていたら、彼は今何をしているだろうか・・・・。きっと彼は映画、テレビ、舞台と大活躍しているだろうし、年来の希望であった演出やプロデューサーもやっているに違いない。しかし、それが所詮かなわぬ事であるならば、彼には荒涼とした砂漠の中で気息奄々、砂塵を浴びてうずくまっていある日本映画が、再び不死鳥のように美しくたくましく蘇るのを見守って欲しいと願っている。(文芸春秋社刊「オール読物」91年8月号より)